59、『真綿の指』
そんなはずはない。
僕のせいでアシュタヤが苦しんだなんて、おかしい、あってはならない。彼女は僕に様々なものを与えてくれた。暖かいものばかりだ。なのに、僕が返したものが暗く冷たいものだったなんて、おかしいじゃないか。
だから、違うんだ。
きっと刑罰装置が誤作動を起こしたんだ。
確かにあのときと状況は似ている。抵抗できず、口だけで殺すと喚いていたやつが死んだのは同じだ。けれど、オルウェダと異なり、フーラァタは直接的な攻撃をしてきていた。
ほら、全然違う。
違うんだ。
もし同じなら、僕はとっくの昔に意識を失ってなければおかしいんだから。
ああ、もう、ジオールも人が悪い。未来視の精度が低いのは知っているけど、連れて帰って新しい装置をくれれば良かったのに。あ、でも、僕が拒否したんだっけ。知ってたら一度帰ったんだけどな。
心配だ。この先も同じ状況になったとき、アシュタヤを守れるのかな。
装置が誤作動を起こしたのは知ってるけど、試しておこう。どうせなくなっているはずの命なんだから、別にいいや。
敵はまだいるだろうから、そいつらで試そう。フーラァタが仲間を殺したせいで出てきづらくなってるんだろうな。でも、これだけ怪我してるんだし、相手も油断して襲ってくるはずだ。
あ、いた。
なんだよ、隠れて。怪我人に臆することないじゃないか。そんなとこに隠れても意味ないってば。障害物なんて関係ないんだから。
ああ、でも、形状変化はいいアイディアだったなあ。
こんなに簡単に人の身体を切れる。ちょっとフィードバックが強いけど、まあ、いっか、手応えが分かるし。改めてやってみると人の身体って硬いんだなあ。骨のせいかな。
首から血が噴き出してるからきっと死んでるのにおかしいなあ。僕の意識がなくならない。死んでるよね? 頭がないんだから。
あれ、でも身体が動いてるな。まだ、死んでないのかも。
近づいて心臓とか刺せば止まるかな。
ああ、もう、汚いなあ。買ってもらった靴が汚れるじゃないか。最後の抵抗にしてはちょっと下品すぎるよ。血って落としにくいらしいし、困ったなあ。アシュタヤが選んでくれた靴なんだけど、後で謝らなきゃ。
んー、そろそろ死んだかな。これだけぐちゃぐちゃで生きてたらホラーだ。それこそ夢に出てくるよ。
――意識はなくならない。
きっとこいつは僕を殺そうとしてたんだ。そっか、だからまだ大丈夫なんだ。ひどい奴だなあ、人を殺そうとするなんて。
くそ、血が跳ねた。服まで汚れた。最悪だ。まあ、でもカンパルツォさまからお金はもらってるし、後で新しい服を買おう。フェンはあまりセンスはないし、レクシナも派手なのばっかり押しつけてくるし、ああ、セイクに着いてきてもらおう。お酒奢る約束もしてるし、ちょうどいい。
……あれ、この人は何してるんだろう。
蹲って、震えてる。戦いに来たんじゃないのか。武器だって持ってるのに。血まみれじゃないか、その武器。誰の血だよ。――誰の!
いや、助けてくれよって言われてもさ、謝られてもさ、先に僕たちを殺そうとしてきたのはきみたちの方だろ? きみだって怪我してるみたいだけどさ。
ねえ。ねえ。ねえってば!
叫んでたって分からないよ。身体に傷がついたら血が出るのは当たり前じゃないか。え、ちょっと待ってよ、泣かないでよ。僕が悪いことしてるみたいで気分が悪くなるよ。僕はただ試してるだけなのに。
あ、分かった。そうやって仲間を呼んでるんだ。
じゃあ、喉を潰そう。何人も来たら面倒だからね。
でも、一回だけじゃ不安だ。何回か――って僕は馬鹿だな、笑える。死ねば声は出ないのか、忘れてた。
――意識はなくならない。
おかしいなあ、今度こそ何も抵抗してなかったけど。仲間を呼ぼうとするとだめなのかな。基準が分かれば楽なのに。
お、誰かが走ってくる音がする。二人か。あっちも僕に気付いたかな、木の陰に隠れてるみたいだ。声もしない、ちょうどいいや。
ちょっとここからだと遠いからもう少し近づこう。
相手も慎重だなあ。一人だけ向かってきてる。ぎりぎりだけど、やってみるのもいいかもしれない。
って、動いてくれた。幸運だな。たぶん十メートルくらいだ、ここから心臓を突いちゃおう。下手に時間をかけたら抵抗されるかもしれないし、仲間を呼ばれるかもしれない。
それっ。
うまく突き刺さったかな。心臓はさっきから、何回か刺してきたから感触が分かるんだよね。びくびくいってるのが伝わってきてる。でも、ちょっと不安だし、少しかき回しておこう。
――よし、そろそろいいかな、確かめてみよう。あの木の向こうだ。
どうなった、か、な――
「え」
あれ、え、なん、で、ちょっと待ってよ。
どうして、どうして――パルタさんがそこにいるの?
ねえ、いや、これは、ああ、違うんだ。そんなつもりじゃ、ねえ、パルタさん、ふざけるのはやめてよ、血が、血が出てる。止まらない。
ああ。
ああああ。
〇
ふわふわと膨張していた思考が一瞬で収縮した。目の前でパルタが倒れている。僕が刺した胸からはまるで命が流れ出すように、一定のリズムで血液が噴き出ていた。
「パルタさんッ! ちが、あの、ごめんなさい、パルタさん!」
げふっ、とパルタの口から血液が飛び出た。真っ赤な血が、僕の顔に降りかかる。熱と濃密な臭いを感じた。それらは僕を責め立てるように、肌をどろどろに溶かしていく。
「ああ、早く、誰か、誰か!」
僕はパルタの胸の真ん中に空いた傷を左手で塞ぐ。だが、意味などなかった。痛みに震える筋肉の細動だけが伝わってきていた。早く誰か、来てくれ! そう願うと同時に、パルタはもう一度血を噴き出した。
「ニール……」
「パルタさんッ! 今、誰か呼びますから、それまで――」
「……いいんだ」
「え」
「私は、ここで、死ぬ」途切れ途切れに言いながら、パルタは僕を見つめてくる。その視線すら重力に負けそうほどに弱々しい。「知って、いたよ……彼から、聞いていた」
「何を……パルタさん! 今、手当を」
手当をしたところで意味がないことは誰よりも僕が知っていた。あの感触が〈腕〉にこびりついている。パルタを死の崖へと押したのは他ならない、僕だ。それに、今いる仲間に治癒魔法を扱える人はいない。
ああ、もう方法は一つしかない。僕は〈腕〉の先端を針状にして折り曲げる。今、魔法陣を刻んで、治療するしかない。どれだけの効果があるか、本当にうまくいくかも分からないが、試さずにはいられなかった。
だが、僕の〈腕〉はうまく動かなかった。超能力を動かしているのは精神だ。恐怖と自責の泥に塗れた〈腕〉は震え、歪な形状になるだけで、望む形にならない。
「僕が、僕が、治しますから、パルタさん!」
「ニール、超能力、というものは、すごいな……なんでもできるじゃないか……こんな、形とは、思っていなかったが、覚悟していれば、耐えられるものだな……」
どうして、パルタは笑っている?
覚悟とは何のことだ?
必死に呼びかけるが、パルタの口は音を発さなかった。彼はそれに気がついていないのか、ぱくぱくと何かを語り続ける。僕の声もまた、透明な死のガラスに阻まれて届いていないようだった。
パルタは小さく、右手を上に動かす。自重にすら負けそうな弱々しい動きの末、彼は人差し指で何かを示した。
行け、と言っているのだろうか? その先に仲間の誰かがいる、と?
だが、僕にはその先の光景は見えない。涙が溢れ、まともにそちらを見ることができなかった。パルタの名前を呼び続ける。血で濡れた左手で涙を拭う。
もう一度、彼の胸を押さえたとき、僕の喉から声が漏れた。ぱたり、とパルタの腕が地面へと落ちる。
心臓の鼓動が止まっていた。
「あ――」
死んだ。
そう考えたと同時に、背後で足音がした。反射的に振り返る。
「アシュタヤ」
視線の先にいたのは目を見開いたアシュタヤだった。彼女は僕と、倒れたまま動かないパルタを見て、唇を噛んだ。彼女の、すべてを悟ったかのような表情に、視界が狭まる。
「ニール……」
その先の言葉を想像して、僕は喚いた。
「アシュタヤ、これは、ちが、あの、違うんだ。僕は、ごめんなさい、僕は――」
――なんて、醜いのだろう。言葉を一つ吐き出すたびに僕の中の大事なものが汚れていく気がした。
アシュタヤの胸からは青い、綺麗な〈糸〉が伸びている。
彼女の力は人の心の形に触れることだ。心は感情に従い、形を変える。
僕の心はどうなっている? パルタの心は今、ここにあるのか?
彼女は蹲る僕の前で膝を突き、僕の頭を抱えた。彼女の心音が聞こえ、涙が溢れる。
パルタのこの音を、僕は止めてしまった。
「立って、ニール……ギルデンスさまはどこかに消えましたが、全員無事です」
その全員の中には、パルタは含まれていない。
アシュタヤは立ち上がり、僕の右腕へと手を伸ばした。けれど、僕は動けない。彼女は僕の腕を掴み、引っ張ろうとして、固まった。
視線の先にあったのは右手の真ん中にある穴で、その次に彼女が見たのは赤黒い血を噴き出している肩だった。
「ニール、あなた、腕……」
ああ、そうだった。僕の右腕は壊れている。どうりで彼女の体温を感じないわけだ。優しく僕を包む、あの感触は流れ出る血液に溶けて、肩より上には届かない。
アシュタヤはひどく悲しそうな顔をして、パルタの血に塗れた僕の左手を掴んだ。こちらの手では彼女の感触が分かった。その感触がとても優しくて、僕の心がばらばらになっていく。
「……ニール、行きましょう。みんなが待ってる」
「アシュタヤ、パルタさんが、起きないんだ。僕が、ねえ、アシュタヤ、僕は何をした? どうして、僕はここにいるんだ?」
「ニール!」
「分からないんだよ。どうして僕がパルタさんが殺したんだ? ねえ、ああ、そうだ、アシュタヤ、僕、強くなったんだ。強くなったんだよ。褒めてくれるかな、もうみんなから馬鹿にされないんだ。これからは木偶の坊とか、言われないんだ」
「ニール、お願い、立って」
「アシュタヤ、みんなでお酒を飲もう。酒を飲めば、僕が……」
僕は何を言っている? とりとめのない思考が脳の裏側で煮え立ち、口から漏れていくようだった。言葉の温度のなさが喉を灼いていく。
……ようやく、自分と、自分の居場所を手に入れられたと思ったのに。
「……アシュタヤ、ごめん、僕は嘘を吐いていたかもしれないんだ」
彼女は悲痛な顔のまま、無言で腕を引いた。拒否することにも疲れ、僕は立ち上がる。パルタの亡骸は動かない。アシュタヤは僕の手を握り、木々の群れを縫うようにして歩いた。しばらく進むと街道に行き当たり、そこで怪我だらけのフェンとヤクバが木を背もたれにして座っていた。
僕たちは勝った。
この勝利で敵もかなり動きづらくなるだろう。下手に手を出しても時間と命を無駄に捨てるだけだと気付くはずだ。それだけの価値がこの戦いにはあった。
僕たちの中で出た犠牲は一人だけ。
数字の上では比べものにならない、明確な勝利と言える。
けれど、その数字を刻んだのは僕だ。
僕は決して許されない罪を犯した。同時に、あの日、燃えさかる屋敷の中で罪を犯していたことを、知った。




