不思議な言葉Ⅲ
レオナルド様は、たまにとても不思議な言葉を口にされます。
私の知るアルビオンの言葉とも、古い書物に記された古代帝国の言葉ともまったく違う、どこか遠い響きの音です。
――ンナワケナイダロ。
――ドーユーイミダソレ。
いろいろな種類がありますが、若様が何かに呆れたり考え込んだりする時、よく耳にするのはそんな言葉でした。
以前、思い切って「それはどこの国の言葉なのですか?」とお尋ねしたことがありました。けれど、レオナルド様はいつものように少し困ったような笑みを浮かべて、曖昧にごまかされてしまったのです。
その日、村を訪れたレオナルド様は、ゴンザさんにウェルマ村の執政官という重い役目を託されました。
最初は「自分のような者が……」とひどく困惑されていたゴンザさんでしたが、あのレオナルド様からの直々の頼みということもあり、深く頭を下げて承諾されました。その姿を見て、私は胸が温かくなるほど嬉しかったのです。
あの日、レオナルド様と出会えたことで、私の人生はまるですべてが塗り替えられました。
かつて村に住んでおられた知識神の神官様が遺された、たった一冊の分厚い本。表紙が擦り切れ、ページが真っ黒になるまで何度も何度も指でなぞりました。最初は記号にしか見えなかった古代の文字も、同じ形を探し出し、規則を見つけ、一つずつパズルを解き明かすようにして読み解いていきました。少しでも意味が通じた瞬間のあの胸の震えは、今でも忘れられません。面白くて、楽しくて、夜が明けるまでやめられなくなってしまったのです。
レオナルド様と巡り会ってからは、私の見たこともないような素晴らしい本を山のように読ませていただきました。
知ることの喜び、学ぶことの尊さを、村の同じくらいの子供たちにも伝えたい――。
その一心で学びを重ねるうちに、気がつけば私は知識神の神官となり、今日までこの村の子供たちや大人たちへ、文字や算術を教えるようになっていました。
ゴンザさんとの話が一段落した後、レオナルド様が村の新しい区画を視察されることになりました。そこで私は、かつてこの村の自警団にいて今は立派な護衛を務めるウカンさんと共に、レオナルド様を案内して歩くことになったのです。
「若様、あちらが増設した風車小屋で、向こうが新しく拓いた圃場です」
私の拙い説明を、レオナルド様はいつも通り穏やかな顔で、ひとつひとつ丁寧に聞いてくださいました。
けれど、拡張された用水路沿いに広がる新しい田畑へと差し掛かった時でした。
私の横を歩いていたウカンさんの気配が、急激に張り詰めたのです。
「――おい」
耳を劈くような、ウカンさんの鋭い怒声。
作業の手を止め、用水路の傍らに佇んでいたのは、最近この村に移住してきたばかりの褐色の肌をした女性でした。農作業用の粗末な服をまとっているはずなのに、ウカンさんは全身の毛を逆立てるようにして、その女性を凄まじい眼光で威圧していました。
私はあまりの空気の急変に、息を呑んで立ちすくんでしまいました。怖い。皮膚がビリビリと痺れるような、冷たい何かが立ち込めています。
「……おい、お前何者だ? そんな殺気を隠せる村人なんざ、俺は見た事ねぇんだが」
ウカンさんは腰を落とし、手にした分厚い訓練棒の先端を、迷いなくその褐色の女性へと突きつけました。
その、刹那でした。
女性の後ろの物陰から、農作業のフードを目深に被った人影が飛び出してきたのです。
背格好は、レオナルド様とさして変わらない小柄な少年。
その少年が、地面を蹴ったと思った瞬間には、もうウカンさんの懐へと肉薄していました。
私は何が起きたのか、まったく理解できませんでした。
ウカンさんは繰り出された最初の一撃こそ間一髪で躱しました。けれど、目にも留まらぬ返しの動作で、胸元へ何かが叩き込まれたのです。
ドサリと、あの屈強なウカンさんが、まるで糸の切れた人形のように泥の上に崩れ落ちました。
「きゃあああああああああっ!」
私の喉から、制御の利かない金切り声が引き裂かれたように響き渡りました。
怖い。助けて。誰か。
パニックで震える視界の中で、レオナルド様が即座に動かれました。腰の護身用の剣を引き抜き、小柄な暴漢の前に立ちはだかります。
ですが――そのフードの少年は、あまりにも常軌を逸していました。
レオナルド様が構えた剣の切っ先を、信じられないほど滑らかな動きで絡め取り、あっという間にその主導権を奪い取ったのです。そして、奪い取った刃の先端を、あろうことかレオナルド様の胸元へと容赦なく突き立て――。
その絶体絶命の瞬間、レオナルド様の口から、吐き捨てるような苦渋に満ちた声が漏れました。
「――チクショー……ッ!」
たまに出る不思議な言葉。
けれど、死を前にした人間の、やりきれない無念と痛ましさが痛いほど伝わってくるような響きでした。
私は耐えきれず、両手で固く目を覆いました。
死んでしまう。若様が殺されてしまう。
数秒にも満たない、永遠のような暗闇。
恐る恐る、指の隙間から薄く目を開けました。その先には、血塗れの見るも無残な惨劇が広がっているに違いないと、絶望に胸を締め付けられながら。
……けれど。 信じられない光景が、そこにありました。
凶刃は、レオナルド様の衣服をわずかに裂いた位置で、ぴたりと止まっていました。
時間が止まったわけではありません。
その暴漢自身が、自らの意志で動きを止めていたのです。
それまで何の感情も映していなかった少年の漆黒の瞳が、初めて大きく揺れていました。
まるで――レオナルド様の口から発せられた何かが、信じられないとでもいうように。
レオナルド様もまた、突然刃を止めた少年の顔を、困惑した様子で見つめ返しています。
「レオナルド様ぁぁッ!!」
「若様ッ!!」
遠くから、大地を揺るがすようなグラーフさんの怒号と、バウンドさんの叫び声が響き渡ってきました。救援が駆けつけてくる足音が、急速に近づいてきます。
その気配を察知した暴漢と褐色の肌の女性は、弾かれたように顔を見合わせると、忌々しそうに「チッ」と激しい舌打ちを鳴らしました。
そして風のように身を翻すと、驚異的な身のこなしで生い茂る森の奥へと走り去っていったのです。
凶悪な二人の姿が木々の向こうへ完全に掻き消え、私はへたり込むように泥の上へ膝をつきました。
全身の震えが止まりません。
……助かった。
若様も、私も、生きている。
張り詰めていた恐怖の糸が切れ、ただただ溢れ出す圧倒的な安堵の思いだけが、冷たくなった私の胸を温めるように包み込んでいきました。
-----人物紹介-----
テアドラ
人族・12歳
ウェルマ村に暮らす知識神ルシーナの神官
幼少より並外れた知的好奇心と記憶力を持ち、村に残されていた一冊の古書から独力で古代文字を読み解いた
レオナルドがウェルマ村へ赴任した際にその才能を見出され、以後多くの書物と教育の機会を与えられる
九歳で知識神ルシーナの神官となり、現在はウェルマ村で子供や成人に文字・算術などを教えている
知らないことを知ることに何よりの喜びを感じる、生粋の学究肌




