誰が為の剣Ⅰ
秋の気配がわずかに混じり始めたとはいえ、夏の終わり特有のねっとりとした残暑が肌にまとわりつく。
開け放った窓から吹き込む生ぬるい風を感じながら、私は机の上の羊皮紙に視線を落とし、低く喉を鳴らして笑った。
隣領リオネルの内情は、もはや沸点を越えて煮え滾っていた。
先ほど届いたゼノスからの密書には、息子の不当な逮捕と農奴の執政官登用をめぐり、騎士団とグレリオ宗家との関係は完全に破綻したと記されている。
(……くくっ、そろそろ仕掛け時だな)
機は熟した。
唯一の懸念は、武勇に優れ兵の信望も厚い嫡男ライモンドの身の振り方だが、あれとて我が手元にいる姪――アンソニーを使えばどうとでも丸め込めるだろう。
グレリオ家の不満分子である騎士どもには、「姪とライモンドの婚姻の祝賀を我がシエル伯領で執り行う」とでも名目を立てて集結させ、我が領に近い村で一斉に蜂起させればいい。そうなれば、ロメロや三男の小僧ごときでは対処しきれず、グレリオ家は内部から瓦解する。
だが――足元を振り返れば、我がシエル伯領内とて盤石の一枚岩というわけではない。
今、最も目障りで懸念すべきは、領内の騎士たちを束ねる門閥――ディバール家の存在だった。
先々代の時代からシエル伯領の武力を差配してきた名家であり、当代の当主ロドリゴは弱冠十九歳でありながら、「ディバール家歴代最高の騎士」と持て囃され、先代の時代から領内に睨みを利かせている男だ。
騎士団内での人望と武名は誰もが認めるものだが、それゆえに傲慢で、私が領主となって以来、何かにつけて私のやることにいちいち従おうとしない不遜な男であった。
そこへいくと、最近の姪はいくらか己の立場というものを弁えてきたようだ。
つい先日も、目の上のたん瘤であるあの騎士ロドリゴを「先に遠ざけておいた方が良い」と、もっともらしい提案をしてきたのだ。
悪くない知恵だった。あの男が領都にいては、背後を突かれかねん。
私は執務室にロドリゴを呼び出し、尊大な態度で命を下した。
「ディバール卿よ。近頃、我が領内から隣領へと逃亡を図る平民の百姓どもが後を絶たん。貴公の手勢を以てリオネル領との境を封鎖し、領内の民の逃亡を力ずくで阻止せよ」
だが、机の前に立つこの若造は、相変わらず虫の好かない面持ちで私を見つめ返してきた。
「……伯爵閣下。民の流出を力で無理やりに抑えつけようとすれば、領内の鬱屈はさらに深まるばかりです。逃亡を阻止したいのであれば、力で抑えつけるより、民が逃亡など考えぬよう希望を持てる統治を施すべきではございませんか」
生意気にも、主君たる私に説教を垂れてくる始末だ。 私のこめかみに青筋が浮かぶ。
「たかが泥にまみれた百姓風情が! 民など我らに税を納めておればよいのだ! 優しくしてやれば頭に乗るだけだと、なぜそれが貴様には分からんのだ!」
苛立ちのあまり机を叩き、私は冷酷な命令を重ねた。
「逃げようとする者は、見せしめで殺しても構わん。逃亡の代償を骨の髄まで思い知らせてやるのだ!」
その瞬間、ロドリゴの顔色が変わった。
青年の瞳に宿ったのは恐怖などではない。まるで路傍の汚物でも見るかのような、底冷えのする蔑みの色だった。
「――我が剣は、民を守るための剣でございます。領民を家畜のように見下し、見せしめに斬り捨てるような非道への加担……このロドリゴ、断じてその命には従えませぬ」
「な……貴様ッ!」
主君に対するあからさまな侮辱と反逆。
激しい怒りが頭頂部まで突き抜け、私の視界が真っ赤に染まった。もはや容赦などできん。この場でこの若造の息の根を止めてくれる!
「よくもほざいたな、ロドリゴ! ディバール家の所領を没収し、貴様を反逆罪として今すぐ処刑して――」
私の口から罷免と処刑の言葉が飛び出し、執務室の空気が張り詰めたその瞬間――。
ギィ、と重い扉が開き、澄んだ声が割り込んできた。
「叔父上、お言葉が廊下の外にまで聞こえておりますわ。……どうか、少し落ち着かれませ」
入ってきたのは姪のアンソニーだった。
部屋に入ってくる姪の姿を見て、私は苛立ちを露わにして眉を吊り上げた。
(……チッ、自分でロドリゴを遠ざけろと言っておきながら、今さら何を言い出すのか)
だが、アンソニーは私の不快な視線を受け流し、私を窘めるように冷静に耳打ちしてきた。
「叔父上。ここでディバール家を敵に回せば、領内の騎士たちが一斉に反発し、厄介なことになります。……ここは一時的に謹慎を命じ、ご自身の荘園へ戻して反省させ、改心の機会を与えてやるのが領主としての器というものではございませんか?」
姪の滑らかな言葉を聞くうちに、沸騰していた私の頭が急速に冷えていくのを感じた。
……確かにそうだ。ここでディバール家と全面衝突するのは得策ではない。
リオネル領を飲み込む前に、足元で内乱を起こされては本末転倒だ。
「……ふん。姪の言葉に免じて、命までは取らん」
私は顎をしゃくり、傲慢に言い放った。
「ロドリゴ卿、貴公に謹慎を命じる。即刻、己の荘園へ引き揚げ、そこで己の不敬を骨の髄まで反省するがいい!」
沙汰を下されたロドリゴは、深々と頭を下げた。
だが、その視線はなぜか私ではなく、私の傍らに立つアンソニーへと向けられていた。
何か意図を測りかねているような、酷く訝しむような目をアンソニーに向けていたが、やがて静かに了解の意を示した。
「……承知いたしました」
ロドリゴは腰に佩いていた自慢の業物――騎士の命たる自らの剣を静かに外し、執務机の上にカタリと置いた。
そして一切の未練を見せることなく、背を向けて執務室を去っていった。
扉が閉まるのを見届け、私は机の上の剣を見下ろして鼻を鳴らした。
牙を抜いた虎など、もはや恐るるに足りん。
邪魔なロドリゴを追い払い、リオネル領の騎士たちを操る糸は手に入った。
(グレリオの小僧どもめ……貴様らの領地を喰らい尽くす日は、もうすぐそこだ)
私は満足げにワイングラスを傾け、自らが描く甘美な野望の完成に酔いしれていた。




