賽は投げられたⅡ
練兵場の隅にある控え室は、鍛錬を終えた兵や騎士たちが武具の手入れや着替えに使う簡素な部屋だ。
初夏特有の急な通り雨に見舞われ、外周の走り込みに出ていた私はずぶ濡れになってしまった。手早く乾いた服に着替えを済ませ、そろそろ帰路につこうと部屋の外へ足を運ぶ。
激しかった雨はいつの間にか上がり、雨上がりの湿った空気の中、西の空が息を呑むほど鮮やかな夕焼けに染まり始めていた。
「――おや、マルチェロ様。お帰りですか」
背後から掛けられた低い声に振り返ると、そこには上級騎士ゼノスが立っていた。
軽く礼を交わし、形式的な挨拶を交わす。
あの酒場での祝いの席以来、この古参騎士は折に触れては何かと私に接触してくるようになっていた。その狙いは明白だ。嫡男であるライモンド様を擁立しようとする、いわゆる「ライモンド派」の陣営に、アントニウス閣下の血を引く私を取り込みたいのだろう。
「精が出ますな」
「日課ですので」
並んで歩きながら、他愛もない雑談を交わして城砦の通用門を出る。
だが、門をくぐり抜けたあたりから、ゼノスは巧みに話題を領政の行方へと誘導し始めた。相手に警戒心を抱かせず、自然に己の土俵へ引きずり込む手腕は、さすが酸いも甘いも噛み分けた上級騎士だと内心で舌を巻く。
「時に、マルチェロ様。次期男爵は……やはり、レオナルド様になられるとお考えですかな?」
歩みを緩めず、横目で探るように投げかけられた問い。
私は表情を崩さず、当たり障りのない回答を心掛けた。
「どうでしょう。私ごときが口を挟めるような話ではございませんよ」
「いやいや、ご謙遜を。レオナルド様の成人を待って家内で決めるというのが、領主代理であるロメロ様のお考えです。家内――つまりご一族の合議ということであれば、同じくアントニウス閣下の血を引かれるマルチェロ様にも、当然ながら重い発言権がおありでしょう」
私が黙って足を進めていると、ゼノスはさらに畳みかけてくる。
「私は領内の秩序を守るというのであれば、正統なる嫡男たるライモンド様こそが継ぐべきだと考えております。……私のこの考え、間違っておりますかな?」
試すような視線が突き刺さる。
私は人差し指でこめかみをポリポリと掻きながら、ゼノスの横顔を伺った。
ここで曖昧に濁して期待を持たせるのは、この男のためにも、家のためにもならない。
私は一度立ち止まり、意を決して口を開いた。
「……ゼノス様」
「はて、何でございましょう」
「おそらくですが……周囲が余計な騒ぎ立てをせねば、順当にライモンド様で決まりましょう。私とても、それがもっとも波風の立たぬ、最善の道だと思っております」
ゼノスの目がわずかに見開かれ、口元が緩みかけた。だが、私の言葉はそこで終わらない。
「ですが――今のゼノス様のように、それを無理やり権力争いに仕立て上げようとする者がいるからこそ、ライモンド様はお悩みになっておられるのですよ」
その一言に、ゼノスの眉がピクリと跳ね上がった。
騎士の表情から慇懃な笑みが消え失せ、腹立たしげな色が剥き出しになる。
「……何を仰るかと思えば。レオナルド様の反意は、もはや火を見るより明らかでございましょう! あのような平民や獣人の私兵を組織し、我ら騎士の権利を奪い、代々の誇りを泥で踏みにじる真似をしておられるのだ! これが……これが亡きアントニウス閣下が目指したリオネルの姿だと、貴方様は本気でお思いなのですか!?」
堰を切ったように激昂するゼノスに、私は静かに首を横に振った。
「レオナルド様に、それほど男爵位への執着や野心があるようには、私には見えませんが」
その返答が、完全にゼノスの導火線に火をつけた。
「欲がないなどと、あの小童の腹黒さを見抜けないのですか!」と、男はもう止まらなかった。
商人まがいの法で領内を引っ掻き回しているだの、騎士を軽視して家を乗っ取る気だの、かつて悪魔憑きと噂された不気味なガキだのと、唾を飛ばしながらレオナルド様への不平不満を私にぶちまけていく。
公の道端で、こうも公然と主家の嫡流後継候補を口汚く罵倒するとは――。
忠義を掲げているはずの武人の浅ましい姿に、私はいささか閉口せざるを得なかった。
ひとしきり吐き出させ、ゼノスが肩で息をしたところで、私は冷ややかな視線を真っ直ぐにその瞳へと据えた。
「ゼノス様。私は確かに、ライモンド様が次期男爵に相応しいと申し上げました」
「……ええ、左様でございますとも」
「しかしそれは、あの類まれなる才覚を持つレオナルド様の協力があってこその話です。弟の知恵と、兄の武勇が揃って初めて、これからのリオネルは成り立つ。……ですが、貴方は違う。貴方はただ、目障りなレオナルド様を排除することしか考えておられない」
ゼノスが息を呑む。私は構わず、はっきりと拒絶を突きつけた。
「そのような短慮に、私が賛同することは金輪際ございません。それに――これ以上、我が弟に対する非礼を重ねられるのであれば、いくら上級騎士の貴方であろうと、私は許せそうにございません」
沈黙が落ちた。
夕暮れの赤光の中、ゼノスの顔が屈辱と怒りで赤黒く染まっていく。
取り込むべき扱いやすい駒と見くびっていた庶子の若造から、痛烈な拒絶と警告を叩きつけられたのだ。
「――チッ」
ゼノスはあからさまに舌打ちを鳴らすと、軽蔑を込めて吐き捨てた。
「……この、小心者が!」
踵を返し、荒々しい足音を立てて去っていくゼノスの背中。
その小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、私はふっと自嘲気味に息を漏らした。
(小心者、か……)
確かに的を射ている。
もし私に並外れた野心や度胸があれば、この混乱に乗じて家督を狙うなり、誰かを蹴落とすなりしたのかもしれない。
だが、私にはそんな大それた欲などないのだ。
あの恐ろしいほど優秀な末弟を誇りに思い、優しい兄たちを敬い、グレリオの家がこれ以上傷つかないことを願う――そんな自分の小心さを、私は決して嫌いではなかった。




