賽は投げられたⅠ
初夏の訪れを告げる陽射しが窓から差し込み、執務机の上に置かれた羊皮紙の束を白く照らし出していた。
外では太陽が日ごとにその存在感を増し、肌を刺すような熱気を運んできている。
だが、マナーハウスにあるレオナルド様の執務室の中に漂っていたのは、領政の緊迫感とはおよそかけ離れた、酷く情けない男の泣き言だった。
「――ですから若様ぁ! そこをなんとか、若様のお口からフローラに一言添えてくださいよ!」
ソファーに浅く腰掛け、丸っこい身体を縮こまらせて懇願しているのはジェロット殿だ。
そのぽっちゃりとした右頬には、あの酒場で見た痛々しい赤いやけどの痕がまだくっきりと残っている。
「若様から『まあまあ、ジェロットも反省しているようだし、そのくらいにしてやりなさい』と軽く言っていただくだけでいいのです! どうか、この通りでございます!」
「……はぁ。なんで俺がお前の夫婦喧嘩の仲裁なんざしなきゃいけねえんだよ」
机の向こうで、レオナルド様が心底うんざりした表情で溜息を吐き出していた。
「だいたい、原因は町娘に鼻の下を伸ばしてたからだろ。身から出た錆だ、自業自得だろ。炎の精霊の加護持ちを怒らせたらどうなるか、結婚して何年経つと思ってんだ」
「ぐっ……そ、それは重々承知の上でして……! ですが、あれ以来、朝食のスープは火傷しそうなほど熱いし、アイロンを掛けたシャツからは焦げ臭い匂いがするし、家庭内の気温が危険水域に達しているのです! 若様のお言葉なら、あいつも絶対に聞き入れますから!」
「知るか! 俺を家庭用消火器代わりに使うな!」
主従というよりは、気心の知れた悪友同士のような不毛なやり取りが延々と繰り返される。
私は苦笑いを噛み殺しながら、手元の机の上で最後の調査書類を揃え、丁寧に紐で束ね直した。 どうやら、こちらから割って入らなければこの茶番は永遠に終わりそうにない。
トン、と机の上に書類の束を軽く打ち鳴らし、私は静かに声を掛けた。
「――レオナルド様、ジェロット殿。証拠はすべて揃いました」
その一言が落ちた瞬間、執務室の空気が一変した。
まるで目に見えないスイッチが切り替わったかのように、レオナルド様とジェロット殿の表情から先刻までの緩み切った気配が消え失せる。
ジェロット殿は居住まいを正して鋭い従士の顔つきに戻り、レオナルド様は灰色の澄んだ瞳に冷徹な光を宿して私へと向き直った。
「……できたか、オズモ」
「はい。言い逃れの余地のない、動かぬ証拠です」
私は深々と一礼し、分厚い調査資料をレオナルド様の前の机へと差し出した。
上級騎士ゼノス卿の息子――騎士ユーゲルによる、公金の横領と不正蓄財の記録。
そして、あろうことかユーゲルが執政官として私腹を肥やすために搾取を行っていた場所は、他でもない『ウェルマ村』だった。
かつてレオナルド様が見習いとして赴任し、痩せた土壌を耕し、新産業を興して奇跡の復興を成し遂げた、あの思い出深い村である。
領民たちが血と汗を流して築き上げた富を、あの男は己の懐を肥やすための獲物として貪っていたのだ。
パラリ、と羊皮紙をめくる乾いた音だけが執務室に響く。
レオナルド様は資料の一行一行に鋭い視線を走らせながら、時折、確認のために短く問いを投げかけてきた。
「この帳簿から抜かれた穀物の売却先……裏で買い取っていた商人の証言は取れているか?」
「はい。公都に拠点を置く穀物問屋の番頭から、秘密裏に言質を取りました。ユーゲル名義で取り交わされた裏の領収書と、私設倉庫への搬入記録も押さえてあります」
「その不正な穀物の搬出と売却に、現地で立ち会った者の証言は?」
「村の倉庫番を務める自警団員二名から、日時と持ち出された荷車数を明記した署名入りの供述書を確保しております。さらに、不自然な帳簿の改ざんを命じられた下級書記官の告白文も添付してあります」
どれも予想していた質問だった。
相手は領内でも屈指の発言権を持つ上級騎士の息子だ。わずか一つの曖昧さや隙があれば、力で握りつぶされかねない。だからこそ、私は数ヶ月にわたり、眠る間も惜しんで外堀を完璧に埋め尽くしてきたのだ。
最後の頁をめくり終えたレオナルド様は、ふっと息を吐き出し、資料を机の上に置いた。
そして、私を真っ直ぐに見つめると、柔らかく目を細めた。
「上出来です。……本当に成長しましたね、オズモ」
その一言に、胸の奥が熱く震えた。
武門の道を外れ、ペンを握る官僚として生きると決めた私の選択を、敬愛する若様が最高の形で認めてくださったのだ。
「ありがとうございます。ですが……ウェルマで若様から教わったことを、やっただけです。数字だけを見るな。数字の向こうにいる人間を見ろ、と」
私が頭を下げると、レオナルド様は机に軽く指をトントンと打ち鳴らし、ふと思い出したように声音のトーンを変えた。
「――そういえば、オズモ。先日お前から第一報をもらった件だが……マルチェロ兄上と、騎士ゼノスの動きは?」
酒場の片隅で接触していた、上級騎士と庶子の兄。
その不穏な糸の先を辿るように、レオナルド様は静かに私へと視線を向けられた。




