焦りⅢ
執務室に届いた密偵からの急報を読み終えた瞬間、私は思わず乾いた笑いを漏らしてしまった。
「……くく、あっははは! 全く、我が姪の婿殿は、とんだお人好しで腹芸の苦手な武辺者と見える」
報告書を机に叩きつけ、苛立ち紛れにこめかみを押さえる。
あろうことか、あのライモンドは詰め寄ってきた上級騎士たちの前で、「家族と争ってまで男爵位を継ぎたいとは思わない」と堂々と宣言したというのだ。
正気か?
全く理解できん。
正統なる嫡流の長男であり、何一つ瑕疵のない第一後継者ではないか。一体どこの誰に遠慮する必要があるというのだ。
戦場では相当な剣の腕前を誇る猛者だと聞き及んでいたが、権力闘争の場においては、弟に地位を譲って平然としているほどの腰抜け、存外な小心者だったということか。
(だが……笑い事では済まぬぞ、これは)
冷笑の奥から、じわりと苦々しい焦燥が這り上がってくる。
このままでは、長男が自ら身を退き、三男が成人とともに後を継ぐという最悪の筋書きが現実のものになってしまう。
手詰まりだ。思惑がことごとく狂わされている。
本来の絵図では、大黒柱たるアントニウスを亡き者にしさえすれば、リオネル男爵領など脆くも私の手中に落ちるはずだったのだ。
しかし、どうだ。あの男が死んで以降のリオネルは、混乱して瓦解するどころか、領の経済成長は留まる気配すらなく、むしろさらに加速している。
まるでこれまでのすべてに、死んだアントニウスなど最初から関わっていなかったかのような動きではないか。
父を失って傷心したライモンドが家督を継ぎ、救出の恩を売った我が姪アンソニーを娶らせる。そうして後ろ盾として食い込めば、そう遠くない将来にあの豊かなリオネル領の実権は、容易くこの私のものとなるはずだった。
それが――次男の領主代理だと?
三男の成人まで家督を保留するだと?
「……ヴァイシスめ、余計な知恵を絞りおって」
歯噛みしながら呻く。公爵が直々にその歪な継承を承認したということは、やはりこの私を警戒しているな。
だが、公爵家の憲兵が私を捕縛しに来ないところを見る限り、陣中でのアントニウス暗殺に私が関わっているという決定的な証拠までは握られていない。
法と公爵の権威を盾にして時間を稼ぎ、私を完全に締め出そうとしている。
(だが……指をくわえて見ている私ではないぞ!)
深く息を吸い込み、重い息を吐き出す。
背後を振り返れば、我が領内の民は今も飢えと困窮から逃れるようにリオネルへ流出し続け、領政は日に日に傾いている。
早急にあちらの富を奪い取り、足元の旧臣どもを黙らせる絶対的な力を得なければ、先に破滅するのはこの私なのだ。
グレリオ家の騎士たちの不満を煽り、内輪揉めを起こさせる手はずは整えつつある。
だが、ライモンドがああまで無欲に引き下がってしまっては、騎士の感情を焚き付けるだけでは決定打として心もとない。神輿である本人が退いては、内乱の大義名分が立たないからだ。
外から叩いても崩れぬなら、内側のどこかにさらに脆い裂け目はないか。
男爵家の血族、継承権の周辺、不満を抱えた存在――。 思考を巡らせていた私の脳裏に、ふと、ある情報が引っかかった。
「……そういえば、あそこにはもう一人、正妻の子ではない庶子の息子がいたな」
名前は何だったか。 正妻の子らに囲まれ、日陰者として生きる庶子の少年。
長男は無欲、次男は凡庸、三男は異様。ならば、その狭間で身の置き所を失っているはずのその少年は、一体どんな鬱屈を胸に抱えているのか。
(……ふっ、くくく、わかるぞ、華やかな嫡流の陰に隠れて虐げられてきたのであろう)
その庶子の子供に自分の幼き日が重なる。
暗がりの中、私の唇が自然と吊り上がった。どれほど強固に見える城壁とて、たった一つの蟻の穴から音を立てて崩れ去るものだ。
グレリオ家という堅固な岩盤に、次なる楔を打ち込んでやるまでのことよ。
-----人物紹介-----
ゼノス・トリトナー
人族・四十八歳
リオネル男爵領に仕える上級騎士
先代領主アントニウスの時代から騎士団の中核を担い、古参騎士の中でも強い発言力を持つ
武門としての誇りが強く、騎士が領地と主家を武力で支える従来の秩序を重んじる保守的な人物
アントニウス亡き後も、嫡男ライモンドこそが正統な後継者であると考えており、家督継承が保留されている現状に強い不満を抱いている
平民や流民、獣人を中心として新設された自衛隊についても、騎士団の権威と役割を脅かす存在として警戒している




