火種Ⅱ
秋の気配が深まり、窓の外から吹き込む風が肌寒さを運んでくる頃、マナーハウスの執務室は重苦しい静寂に包まれていた。
机の上に広げられた一枚の羊皮紙を見つめながら、私は、隣に立つ兄ライモンド、そして正面に控える宰相ゲオルグと、思わず顔を見合わせた。
そこに記されていたのは、領内の軍事体制を根底から覆しかねない、三男レオナルドによる新たな提案――「軍制改革案」だった。
「……若君。これはいささか、早急に過ぎるかと存じますが」
張り詰めた沈黙を破り、慎重に言葉を選びながら窘めたのはゲオルグだった。
だが、机を挟んで立つ十二歳の末弟は、感情の波を一切見せない冷徹な瞳のまま、静かに首を横に振った。
「私も、本来であればもう少し時間をかけるべきだと考えておりました。ですが……シエル伯による武力的な介入が絶対にないとは言い切れない情勢です。少数で構いません。取り急ぎ、枠組みだけでも着手しておきたく思います」
その言葉に、武人である兄ライモンドが痛ましげに眉をひそめ、弟へ問いかけた。
「お前の言う軍が必要なのは分かる。だが、今それを作れば騎士たちは自分たちが信用されていないと受け取るぞ」
レオナルドは黙って兄の話を聞く。
「父上が亡くなり皆、動揺している。そこへ新しい軍を作れば、自分たちは不要になったのかと考える者も出る」
ライモンドの言葉に、レオナルドは頷いて答える。
「承知しています」
「レオナルド。我が家には父上から受け継いだ歴戦の騎士たちが大勢いる。彼らをもっと重用し、結束を固めるのでは駄目なのか?」
父を敬愛し、武門の誇りを重んじる兄上らしい言葉だった。
しかし、レオナルドは僅かな躊躇すら見せず、淡々とその案を却下した。
「現在の騎士団では不十分です。我が領に必要なのは、有事の際に領主の命令一つで迅速に動ける常備軍。そして、古い血統や利権に縛られず、指揮官の命に絶対の忠誠を誓い、功績と軍律に応じて正しく賞罰を与えられる組織でなければならないのです」
常備軍構想――。
それは以前にも、内政改革が軌道に乗り始めた頃にレオナルドが口にしていた構想だった。
けれど当時は、「まだ先の話です」と本人も笑って先送りにしていたはずなのだ。
それがいま、こうして急務として机上に叩きつけられている。末弟の怜悧な頭脳は、男爵領を取り巻く情勢がもはや猶予を許さない段階に達したと判断しているのだ。
(けれど……そこまで切迫しているというのか?)
私は胃のあたりが重くなるのを感じながら、疑問を口にした。
「確かに、シエル伯の介入は警戒すべきかもしれない。……だがレオナルド、いくらなんでも軍を伴う直接侵攻まで警戒する必要があるだろうか? 大義名分のない私闘や領地侵犯は、公国の法において厳格にご法度とされている。いくら野心家とはいえ、リオン卿には我がリオネルを攻める理由などないはずだ」
ヴァイシス公爵の目が光る公国内で、堂々と他領へ兵を進める貴族などいるはずがない。
私の常識的な問いかけに対し、レオナルドは一切の揺らぎのない眼差しを真っ直ぐに私へ向けてきた。
「兄上。明確に、現時点で、我々が最も警戒すべき相手はシエル伯です。何らかの思惑を持つ強大な隣人がいると考えられる以上、対抗策を講じないのは、領民を預かる領主家としてはいささか怠惰に過ぎます」
ぐうの音も出なかった。
痛いところを突かれ、私は言葉を詰まらせる。
表立って伯爵家に対抗するような大規模な軍拡は公国の秩序を乱す。しかし、有事の際に自力で領民を守る牙を持たなければ、いざという時に付け込まれ、蹂躙されるだけなのだと――十二歳の弟は、誰よりも冷酷に現実の厳しさを見据えていた。
押し黙る私を見て、ゲオルグが咳払いを一つし、ライモンド兄上と目配せを交わしながら折衷案を口にした。
「……ロメロ様。レオナルド様の申される危機感にも一理ございます。なれば、まずはごく少数で運用を始めてみるというのはいかがでしょうか。本格的な軍制の刷新ではなく、あくまで試験的な運用として枠組みを整えるのであれば、騎士たちの反発も最小限に抑えられましょう」
「ああ、私もゲオルグの言う通りだと思う」
兄上も頷いた。
「少数であれば、私が騎士たちへの説明や手綱引きを引き受けよう」
今やリオネル男爵領は、レオナルドの改革によって公国内でも有数の豊かさを誇っている。
わずかな規模の常備部隊を雇い入れ、維持したところで、領の財政を圧迫することなどあり得ない。
二人の後押しを受け、私は机上の羊皮紙にそっと手を置いた。
争いを好まない私にとって、「軍」を新設するなどという決断は身が竦むほどに重い。
けれど、父の遺したこの地を守ると誓ったのだ。ここで波風を恐れて目を背けるわけにはいかない。
「……分かりました。レオナルド、常備軍の創設を許可します。ただし、騎士たちとの摩擦には最大限配慮し、まずはゲオルグの言う通り少数の枠組みから始めてください」
「ありがとうございます、兄上」
レオナルドは深く一礼した。その口元に浮かんだ微かな笑みを見つめながら、私はこれから訪れるであろう嵐の予感に、小さく息を呑み込んだ。




