帰還Ⅲ
父上が、亡くなった。
その凶報が屋敷を切り裂いた一昨日から、私の世界はずっと色を失ったままだった。
歴戦の将として誰よりも強く、グレリオの旗を背負って戦場に立つ姿は私の誇りそのものだった。その父上が、武人の誉れある戦いではなく、毒という卑劣な刃によって命を奪われた。悲痛と怒りで胸が張り裂けそうだった。
けれど、絶望はそれだけで終わらなかった。
天幕に同席していたライモンド兄様に、あろうことか実父毒殺の嫌疑がかけられ、公都へ連行されたというのだ。
「そんなの、絶対に嘘に決まっている……!」
どれほど心の中で叫んだことだろう。
ライモンド兄様は、父上を誰よりも崇敬し、武門の誉れと誇りを何よりも重んじる人だ。
領民や家族に優しい眼差しを向け、理不尽を嫌い、どんな時でも正々堂々と木剣を振るい続けていたあの兄様が、父上を殺めるなんて……。
ライモンド兄様は背中で皆を引っ張っていく、私の誇りで自慢の兄なのだ。
その兄様が、冷たい牢獄に閉じ込められ、あまつさえ逆賊の汚名を着せられている――その理不尽な焦燥と恐怖に、夜も眠れずただ祈り続けるしかなかった。
今日、兄様が疑いを晴らして釈放され、屋敷へ戻られると聞いた。
夕暮れが過ぎ、食堂に並べられた食事に手をつけようとしても、喉を通るはずもなかった。兄様は無事なのか。怪我はしていないのか。心無い取り調べで傷つけられてはいないだろうか。
その時だった。
――ヒヒィィン!
夜の静寂を破り、前庭から激しい馬の嘶きと、石畳を叩く蹄の音が響いた。
「兄様……!?」
私は給仕の制止も耳に入らず、椅子を蹴るようにして食堂を飛び出していた。
侍女たちの驚く声を背に受けながら、ドレスの裾を持ち上げ、絨毯の敷かれた廊下を無我夢中で駆ける。
階段を駆け下り、二階と一階をつなぐ広い踊り場へと飛び出した、その刹那だった。
ギィィと重い音を立てて、大ホールの重厚な扉が左右に開け放たれた。
そこに立っていたのは、まぎれもなくライモンド兄様だった。
夜風と埃にまみれ、革鎧を身に纏った兄様。
家族に心配をかけまいと、いつものように背筋をぴんと伸ばし、堂々たる威厳を保とうとしている。
けれど――その頬はわずかに削げ、目の下には濃い隈が落ちていた。
父の死、身に覚えのない屈辱的な拘束、そしてそこから休む間もなく馬を飛ばしての帰還。この数日の過酷な出来事が、兄様の精悍な顔立ちに隠しようもない疲労の色を刻みつけていた。
(ああ……兄様……!)
取り乱して駆け下りてきた私だったが、どれほど傷つき疲れていても武門の長男として毅然と振る舞う兄様の姿を目にした瞬間、胸を突かれた。
私だって、グレリオの血を引く娘なのだ。はしたなく泣き叫ぶわけにはいかない。
息を整え、両手を前で重ねて、貴族の令嬢として背筋を伸ばした。
同じタイミングで、背後の階段から足音が響いた。
執務室から駆けつけてきたロメロ兄様とレオナルドが、息を切らしながら踊り場へと降りてくる。二人の視線もまた、無言のままホール中央の兄様へと注がれていた。
「……ライモンド兄様。無事のお戻り、心より……」
淑女として、礼儀正しく出迎えの言葉を口にしようとした。
けれど、兄様がこちらを見上げ、ふっといつもの優しく温かな眼差しで私を、そして駆けつけた弟たちを見つめ返した瞬間――。
張り詰めていた私の心の糸が、音を立てて切れた。
「――っ、兄様ぁっ!」
礼儀も、体裁も、淑女の矜持も、すべて吹き飛んだ。
私は踊り場から飛び降りるような勢いで残りの階段を駆け下りると、そのまま兄様の胸の中へと飛び込んでいた。
「レティーシャ……!?」
驚く兄様の腕に縋りつき、分厚い革鎧に顔をうずめる。
「……心配をかけたな。皆、ただいま」
生きて、戻ってきてくれた。父上を失ったけれど、兄様はここにいる。
温かな体温と、懐かしい鍛錬の匂いを感じた瞬間、瞳から熱い涙が止めどなく溢れ出し、私は子供のように兄様の胸で泣きじゃくっていた。
-----人物紹介-----
ヴァイシス・ルガーノ
人族・26歳
ノルテン公国を治めるルガーノ公爵家の現当主
ノルテン公爵位とともにノルデン伯爵位を有し、公国中央部に広大な直轄領を持つ
歴代のノルテン公が進めてきた公国の統治体制を引き継ぎ、各地の有力貴族との均衡を図りながら、公爵家を中心とした安定した統治を目指している
グレリオ男爵家とは代々関係が深く、当主アントニウスの武勇と忠誠を高く評価し、公爵軍の中核を担う将の一人として厚い信頼を寄せていた
また、幼くして領政に関わり、リオネル男爵領に急速な発展をもたらしているレオナルドの才覚にも早くから注目している
その年齢からは考えられない働きを見せるレオナルドを「麒麟児」と評し、その将来に強い関心を抱いている




