帰還Ⅰ
男爵執務室の冷え切った空気の中、私は机上の決裁印を見つめたまま、目の前に立つ老臣の言葉を咀嚼できずにいた。
父上を失った悲痛と、兄上が無事に釈放されるという安堵が交錯していた頭に、バルド老が持ち込んできた提案はあまりに突拍子もなく、私の理解の範疇を遥かに超えていた。
「……もう一度、確認させてください、バルド老」
掠れた声で、私は自分に言い聞かせるように言葉を繰り返した。
「父上が亡くなられた以上、グレリオ家の後継の決定は、レオナルドが成人するまで保留とする。そしてその間、私が『領主代理』を継続し、男爵領の統治を代行する……。本当に、そう仰るのですか」
「左様にございます、ロメロ様」
深く刻まれた皺の奥で、バルド老の双眸が一切の揺らぎなく私を射抜いていた。
「それはつまり……無実の罪を晴らして生きて戻られるライモンド兄上に、男爵位を継承させないということではありませんか……」
思わず立ち上がりかけた私に、バルド老は痛ましげに眉を寄せながらも、首を横に振った。
「させぬ、のではございませぬ。いま、この状況で継承させるのがあまりに危険すぎる、と申し上げているのです」
老臣は一歩踏み込み、声を低くして説いた。
父上の不可解な暗殺、そして無実の兄上を救い出したシエル伯リオン卿の影。
もしもシエル伯に何らかの思惑があった場合、命を救われた恩義と姪御との婚姻を梃子に、若くして当主となった兄上を通じて男爵領へ不当に介入してくる危険性が極めて高いのだと。
頭では理解できる。昨夜レオナルドが語っていた懸念と同じだ。
だが、私の心がどうしても納得を拒んでいた。
「しかし……そんな理屈が通るものですか! 兄上は嫡男なのですよ? 正統なる後継者が無事に戻られたというのに、家督を継がせないなどという勝手な都合を、主家たるヴァイシス公爵様が認めるはずがありません!」
「その件につきましては、すでに宰相ゲオルグが公都へと走っております」
「なっ……!?」
耳を疑った。
この二人は、昨夜から今朝にかけてのわずかな時間の中で、私の頭越しにそこまで話を進め、すでに公爵への直談判へと動き出していたというのか。
胸を突くような焦燥と動揺が、濁流となって押し寄せてくる。
仮に、万が一にも公爵様がこの歪な継承保留を認めたとして、その先はどうなるのだ。
「家中はどうなるのです……! 保守派の騎士たちや、父上を失って動揺している領民たちは納得するのですか? レティーシャやマルチェロは……! 何より、無実の罪を耐え忍び、やっとの思いで戻ってこられるライモンド兄上は、一体どうお思いになる!」
長男として家を背負う覚悟を固めて帰還する兄上に、「お前にはまだ継がせない」と冷酷に突きつけるのだ。
父上のような覇気もなく、亡き母に似て穏やかで争いごとを好まない性分の私にとって、実の兄が継ぐはずだった家督を自分が預かり続けるなど、考えただけでも胸が張り裂けそうだった。
私の悲痛な問いかけに、バルド老はしばし口を閉ざした。
重い沈黙が流れた後、老臣は静かに、だが確信を込めて呟いた。
「……ライモンド様は、己の欲のために動くようなお方ではございませぬ。事情を包み隠さずお話しすれば、決して分からぬお方ではない。ライモンド様の説得は、この老骨が命に代えても引き受けます」
「バルド老……」
「ですからロメロ様。どうか……どうか、腹を括っていただきたいのです」
老臣が深く頭を下げた。 机に残された父上の執務印が、私に重く問いかけてくるようだった。
(……私に、できるというのか?)
胃の腑がきつく軋む。
この策が認められれば、レオナルドが成人するまであと四年。
その長い年月、家中の軋轢を受け止めながら男爵領の舵を取り続けることになるかもしれない。
生まれつき争いを好まず、皆が穏やかに暮らせることだけを願ってきたような私が。
武の才に秀でた兄や、驚異的な知謀を持つ弟の狭間で、ただ波風を立てぬよう生きてきた私に……。
目の前が眩暈を覚えるほどに暗く、頼りない膝が震えていた。
けれど――公都へ走ったゲオルグ様も、頭を垂れるバルド老も、皆この家を守るために泥を被る覚悟を決めている。
兄上の誇りを守り、幼い弟妹や領民の未来を守るために。
私は震える両拳を強く握り締め、逃げ出したい心を必死に押し殺しながら、重い息を深く吐き出した。
「……分かりました」
自分の声とは思えないほど、か細い声だった。
「私が……やります。父上が遺されたこの領地を、守ります」




