先手Ⅲ
東の窓から、ようやく白々とした朝陽が差し込み始めた頃合いじゃった。
コン、コンと、控えめながらも切迫した調子で、わしの部屋のドアをノックする音が響いた。
一睡もできぬまま夜を明かし、疲労のこびりついた鉛のように重い体をベッドから無理やり起こして、鍵を外してドアを開ける。
そこに立っておったのは、宰相ゲオルグじゃった。
「バルド殿、朝早くから申し訳ない。……至急、お耳に入れたい儀がある」
「……お主か。入れ」
まだ夜気の残る部屋に宰相を招き入れる。
客室の隅には、水差しが置かれた小さな丸テーブルと、木製の椅子が一脚あるばかりじゃ。わしはゲオルグに椅子を勧め、自身は軋むベッドの端に浅く腰を下ろした。
腰掛けたゲオルグが口にしたのは、わしの眠気など一瞬で吹き飛ばすほどの、恐るべき見取り図じゃった。
――もしも、シエル伯の思惑通りにライモンド様が男爵位を継ぎ、その背後からリオン卿がこの男爵領へと介入してきたら、どうなるか。
最初はぎょっとしたものの、冷静になって盤面を噛み砕くにつれ、ゲオルグの言う通りだと認めざるを得んかった。
ライモンド様が家督を継ぐこと自体は、相続の法に照らしても何ら不自然ではない。わしとてあの若武者の器量と武勇は認めておる。
だが――問題は、そこに絡みつくシエル伯の不当な介入じゃ。
ライモンド様が易々と他家の言いなりになるとは思わん。じゃが、命を救われた恩義と婚姻関係を盾に、伯爵という格上の貴族が領政へ口を挟んできたなら、若いライモンド様とて無下にはできまい。
(そんなことになれば……レオナルド様が進めてきたこれまでの改革はどうなる?)
ようやく芽吹き始めた四圃式農法も、港の物流改革も、鉱山の増産も、すべてシエル伯の利権のために吸い上げられ、頓挫してしまうかもしれん。
この男爵領が何十年もかけて培い、レオナルド様が爆発的に花開かせた果実を、他家の腹黒い伯爵に横取りされてたまるものか。
ライモンド様が継承すること自体に異論はない。問題は、シエル伯による不当な介入そのものなのじゃ。
じゃが、向こうが一枚上手で動いている以上、わしの頭では対抗する策など何一つ浮かんでこん。
「……ゲオルグ。お主、何か手はあるのか?」
わしが低く問うと、ゲオルグは力強く頷き、確信に満ちた目で言葉を継いだ。
「ええ。まず、私が直ちに公都へ赴き、ヴァイシス公爵様にお目通りを願います。そして、生前よりアントニウス閣下が継承に関してライモンド様とレオナルド様のどちらが相応しいかと深く悩んでおられた事実をお伝えするのです」
その言葉に、わしの胸の奥が微かに疼いた。
そうじゃ、それは出鱈目な虚言などではない。
武勇に優れ騎士たちの信望を集める長男ライモンド様か、並外れた才覚で領地を豊かに導く三男レオナルド様か――当のアントニウス様ご自身が、生前に誰よりも頭を悩ませておられた紛れもない事実だった。
「この件は、グレリオ家の重臣であるバルド殿と私が揃って証言すれば、公爵様も重く受け止められるでしょう。その上で、アントニウス閣下が後継について最終的な意思を示されぬまま亡くなられた以上、ただちにライモンド様への継承を確定させるべきではないと申し上げます」
ゲオルグの言葉に、わしは思わず眉を跳ね上げた。
「……継承を止めるというのか?」
「ええ、ですからこう続けるのです。もう一人の有力な請求権者であるレオナルド様が成人されるまでは、家督を暫定的に保留していただきたい、と」
「待て、ゲオルグ。レオナルド様が成人するまであと四年もある。その間、領主を不在のままにするというのか?」
「いいえ。そのためのロメロ様です。閣下が亡くなられたとはいえ、次の正式な当主が決定・承認されるまでの間、前当主の直命を受けたロメロ様が『領主代理』として統治を代行することは、前例からも法解釈からも十分に成立いたします。それを公爵様に認めさせ、公認を取り付けるのです」
なるほど、次期当主が決まるまで、アントニウス様の遺言とも言える布告を利用してロメロ様を領主代理として公爵に認めさせるわけか。
「ええ。その間に家中を落ち着かせ、アントニウス閣下の死についても調べることができます。何より、いまこの混乱の最中に家督を確定させる必要がなくなる。私はライモンド様の継承に異を唱えたいのではありません。平時であれば、私も迷わずライモンド様を次期当主としてお迎えしたでしょう。ですが、今はあまりにも状況が悪すぎます」
宰相は続ける。
「閣下の死によって、出征中の代理という本来の根拠は失われました。ですが、正式な後継者が決まるまで統治を止めるわけにはいかない。そこで公爵様から改めて、ロメロ様を暫定的な領主代理として承認していただくのです」
面白いことを考える宰相じゃ。
だが、見事に筋は通っておる。
これならばライモンド様の許可も、レオナルド様の許可も一切いらん。
ロメロ様を説得しさえすれば、あとは公爵様の判断に委ねられるのだから。
「ただし――急ぐ必要があります」
ゲオルグは鋭い視線でわしを見据え、切迫した声で告げた。
「ライモンド様がリオネルへ帰還され、正式な継承手続きに入ってしまえば、こちらから異議を申し立てることは格段に難しくなります。まして、公爵様が継承を承認された後では遅い。それよりも前に、公都で公爵様の承認を取り付けなければなりません」
急がねばならん。
だが、この宰相は周到な男じゃ。
すでに公都へ向けて先行の早馬を放ち、自らもすぐに出立してヴァイシス公にお目通りを願う手筈を整え終えているという。
「バルド殿。私が出立する間、どうかロメロ様の説得をお願いいたします」
「あい分かった。あのお方に腹を括らせるのは、わしの役目じゃな」
頼み事を終えたゲオルグは深く一礼すると、風のように足早に部屋を出て行った。
扉が閉まる音を見届けながら、わしは小さく口元を緩めた。
昨夜は主君の死に狼狽していた男が、一夜明ければこの切れ味じゃ。
やつも調子が上がってきたようじゃわい。
「さて……わしも頼まれた仕事をするとしようかの」
わしは痛む腰を叩いて立ち上がり、ロメロ様の待つ執務室へ向けて歩き出した。
アントニウス様が命懸けで守り、残された若君らが切り拓こうとするこの家の未来を、みすみす他家に渡してなるものか。
-----人物紹介-----
ゲオルグ・ヴァルデス
人族・39歳
グレリオ男爵家に仕える宰相
男爵家の庶子であるマティルダとマルチェロの母方の叔父にあたり、長年にわたりアントニウスを支えてきた重臣の一人
主に領内の法務や対外折衝を担当し、他領との交渉や貴族社会の慣習、公国の法にも通じている
冷静で実務能力に優れ、領政においては家令バルドとともにアントニウスを補佐してきた
レオナルドが領政に関わるようになってからは、その常識外れともいえる発想に驚かされながらも、実現可能性や既存の制度との整合性を検討し、実務へと落とし込む役割を担っている




