先手Ⅰ
公都ノルデンに聳え立つ城砦の一角、狭く切り出された灰色の石材に囲まれた冷ややかな一室。
窓のないその部屋では日の光すら届かず、いまが昼なのか夜なのか、どれほどの時が流れたのかさえ定かではなかった。
頭を抱え、石の床を見つめながら、私は己の身に起きた悪夢のような出来事の整理をつけられずにいた。
マルケン国境への遠征の陣中。
夕刻、天幕の中で軍議の覚書に目を通していた父上が、喉をかきむしるようにして突如その場に倒れ伏し、激しく血を吐いた。
喉を引き裂くような父の苦悶の呻き。慌てて飛び出し軍医を呼んだが、駆けつけた時にはすべてが手遅れだった。
軍医の震える指先が告げた死因は――即効性を持つ極めて強力な劇毒。
歴戦の武将であった父が、正面からの刃ではなく、何者かが仕込んだ毒の一撃で無惨に命を奪われたのだ。
その衝撃と哀痛に打ちひしがれる間もなく、天幕へ踏み込んできた公国の憲兵と騎士たちは、冷徹な目で現場を検分し、あろうことか私へと鋭い切っ先のような視線を向けた。
『状況を精査するため、公都へ同行し取り調べを受けてもらう。大人しく従われよ』
まるで、私が実の父を殺めた大逆人であると言わんばかりの通達だった。
当然、そんな身に覚えのない屈辱に激しく抗議した。父を敬愛こそすれ、傷つける理由など天地が裂けてもあり得ない。
だが、彼らは『それは公都で詳しく調べる』と機械的な一点張りで、私の言葉に耳を貸そうともしなかった。
混乱の極みの中、気持ちの整理すらつけられぬまま、私は護送部隊によって陣を後にさせられた。
後方で見送るグレリオの兵たちが、主君を失い、私が連行されたことで、皆一様に怯えと不安に顔を歪めていた光景が今も脳裏に焼き付いて離れない。
「――それで、グレリオ殿。もう一度伺おう。閣下が倒れられた際、天幕の中にいたのは誰だ」
目の前に腰掛ける公国の上級騎士が、感情を削ぎ落としたような声で、同じ問いを繰り返す。
「……だから、私と父上だけだと言っているだろう!」
「では、その水差しを用意したのは誰だ。貴殿が手ずから注いだのではないのか?」
「知らん! 私が天幕に入った時にはすでに置かれていた! 父上自ら喉を潤そうと口にされたのだ、私ではない!」
何度説明しても、返ってくるのは同じ詰問ばかりだった。
父を喪った悲痛で胸が張り裂けそうなのに、眼前で繰り返されるのは侮辱と疑心の刃。拳を握り締めすぎて爪が掌に食い込み、血が滲むのを感じた。
どれほどの時間、その不毛で屈辱的なやり取りが続いただろうか。
不意に重い鉄の扉がきしみ、部屋の外から一人の男が静かに入ってきた。
「……そこまでにしてもらおうか」
落ち着き払った声と共に現れたのは、仕立ての良い豪奢な上着を纏った人物――私の婚約者であるアンソニーの叔父、シエル伯リオン卿だった。
「叔父殿……? なぜ、ここに……」
驚愕に目を見張る私へ、リオン卿は深く沈痛な面持ちで歩み寄り、肩に手を置いた。
「ライモンド殿……この度は、誠に痛ましいことになった。アントニウス閣下のご逝去、心よりお悔やみ申し上げる」
その温かな声音に、張り詰め通しだった私の胸の奥が微かに震えた。
リオン卿は取り調べをしていた上級騎士へと向き直ると、凛とした威厳を込めて静かに語りかけた。
「騎士殿。この青年が実の父に毒を盛るなど、あり得ぬことだ。ライモンド殿は誰よりも父アントニウス閣下の武勇を尊び、その背中を追ってきた廉潔な武人。曲がったことを何よりも嫌うこの男が、毒殺などという卑劣極まりない手段を選ぶはずがないことは、彼を少しでも知る者ならば明白なはずだ」
私を信じ、堂々と潔白を主張してくれる言葉に、張り詰めていた胸の奥がわずかに緩んだ。だが――次の瞬間、その感情は急速に冷えた。
リオン卿は、流れるような手つきで懐から重みのある革袋を取り出すと、机を挟んで上級騎士の手元へと滑らせた。
かすかに鳴った鈍い金属音――紛れもない袖の下だった。
革袋の重みを確かめた上級騎士は、値踏みするように私を一瞥し、やがてわざとらしく咳払いを一つした。
「……ふむ。状況証拠の他には、ライモンド殿が毒を混入したという明確な手掛かりがないのも事実。これ以上の有力貴族に対する拘束は、公国の法に照らしても妥当とは言えませんな。――分かりました。明朝をもって、身柄の拘束を解くことといたしましょう」
あっけないほどの掌返しだった。
リオン卿は小さく頷き、私へと柔らかな視線を向けた。
「大変だったな、婿殿。無実の罪でこのような冷え冷えとした場所に閉じ込められ、さぞ無念であったろう」
助かった。
それは紛れもない事実だった。
だが、自分の自由が目の前で交わされた金によって買われたのだと思うと、素直に感謝する気にはなれなかった。
「……ご尽力、感謝いたします、叔父殿……」
深く頭を下げながらも、胸の奥に生まれた違和感は消えなかった。
しかし――いまの私には、それを突き詰めて考える余裕などなかった。
そんな違和感の追及などよりも、いまは一刻も早くリオネルの城砦へ帰りたい。
突然父を奪われ、打ちひしがれているであろうロメロ、そして幼い妹弟たちの顔が脳裏に浮かぶ。
(早く戻らねば……。私が、長男である私が家を支えねばならないのだ……)
家族の元へ帰りたいという切迫した祈りにも似た思いだけが、冷え切った牢の中で私の心を強く突き動かしていた。




