木剣の型
春の穏やかな陽光が、館の正面に広がる敷地を明るく照らしていた。冷え込む冬が完全に明け、芽吹いた若草の青い匂いが、心地よい微風に乗って鼻腔をくすぐる。
マナーハウスの裏手には客を迎えるための、広々とした手入れの行き届いた庭園が広がっているが、日々の泥臭い鍛錬にそこが使われることはない。
正面の簡素な丸木柵で囲まれた敷地――門をくぐってすぐ、館の左端に位置する一角に、小石や雑草を丁寧に取り除き、土を固めて整地された練習場が設けられていた。
昼食を終えたばかりの静かな昼下がり。暖かな日差しが降り注ぐその足場の上で、乾いた木と木が激しく打ち合わされる鋭い音が響き渡っていた。
「踏み込みの勢いをそのまま剣先に乗せるのです!」
厳しい声を張り上げているのは、褐色の革鎧を纏った三十代半ばの騎士だ。髭面に汗を光らせ、手にした訓練用の重い樫の木剣で容赦のない打ち込みを繰り出している。
それを受け止めるのは、十歳の男爵家長男・ライモンドだった。父アントニウスを心から尊敬し、将来は立派な騎士となって公爵様に仕える将軍になりたいと夢見る、実直で真っ直ぐな少年だ。
まだ身体つきには少年特有の細さを残しているものの、その身のこなしには、すでに天性の戦士としての才が色濃く滲み出ていた。
鋭い踏み込みとともに放たれる反撃の一撃。力任せの打ち合いではない。相手の体勢が崩れた刹那を逃さず、最短距離で間合いを詰めるその動きには、十歳の少年とは思えない非凡な才の片鱗があった。
打ち合うたびに舞い上がるかすかな土煙が、春の陽光を浴びて淡くきらめいている。
◇
私は練習場の隅に腰を下ろし、六つ年上の兄ライモンドの稽古を眺めていた。
父譲りの灰色の髪を短く刈った兄は、汗を流しながら教育係の騎士と木剣を打ち合わせている。
対するは教育係を務める三十代の騎士。背筋は伸び、打ち込む木剣には容赦がない。とても子供相手の稽古とは思えなかった。
「もっと腰を落とせ! 腕ではなく足で打つんだ!」
鋭い叱咤とともに、ライモンドは踏み込み、木剣を振り下ろす。
カン、と乾いた音が練習場に響く。
打ち返されても怯まず、また一歩踏み出す。まだ幼いながら、その姿はすでに武人のそれだった。
私――レオナルド・グレリオは、リオネル男爵領主アントニウス・グレリオの三男だ。
六歳上に双子の兄ライモンドとロメロ、三歳上に姉のレティーシャがいる。
四歳となり、足腰もだいぶしっかりしてきた。半世紀にわたり永田町の泥沼で権力闘争に明け暮れてきた私にとって、降って湧いたようなこの二度目の人生は、まさに神からの思わぬ退職金のようなものだ。
(……ありがたい話だな)
そこそこ権力も財力もある田舎領主の、気楽な三男坊。家督を継ぐ責任もなければ、政権維持のプレッシャーもない。この不便で衛生状態の怪しいファンタジー世界ではあるが、余計な野心など持たず、適当に本でも読んでのんびり緩く生きるには最高のポジションだ。
もちろん、この過酷な異世界で転生者であることなど知られれば、どんな騒ぎになるか分かったものではない。野盗や魔獣から身を守る最低限の知識と体力も要る。だからこそ書庫で知識を拾い、こうして外に出て身体を動かすことにも抵抗はないが、それもあくまで「平穏な隠居生活」を維持するための自衛手段に過ぎない。
(こんな世界だ。護身術は学んでおいて損はないだろう。……それにしても、ライモンドはすごいな)
木剣を振るうライモンドの足運びに、思わず感心のため息が漏れる。
両足を自然に開き、膝を柔らかく使って重心を常に体幹の中心に置いている。前世のスポーツ力学でいう『アスレチックスタンス』そのものだ。もちろん、そんな理屈を教わったわけではないだろう。それでも十歳の少年が、経験と感覚だけで理想に近い姿勢を取っている。
私にまとわりつく「泣かずの子」だの「悪魔憑き」だのといった心ない噂を誰よりも嫌い、事あるごとに「レオは俺の可愛い弟だ!」と庇ってくれる、心優しい男だ。
家族は皆、私にやさしく接してくれる。
ライモンド長兄も、その双子のロメロ次兄も、私より三つ年上のレティーシャ姉も。もちろん、父や母もだ。
グレリオ家の未来は明るいように思えた。
(私は兄の手伝いでもして、のんびり暮らすのも悪くはないか)
そんな気楽な感慨に浸っていると、騎士の木剣がライモンドの肩をかすめた。
兄は痛みに顔をしかめながらも一歩引き、すぐに反撃に移る。鋭い横払いが風を切った。
これは天賦の才だ。
兄はまだ十歳だが、その剣技は素人の自分から見ても卓越している。
思わず声を漏らした。
「なるほど……」
呟きに気がついた騎士が、愉快そうにライモンドの反撃を力任せに押し返す。
「分かりますかな、若様!」
「兄上……足の動きが、とてもすごいです」
言った途端、練習場の空気が止まった。
(しまった……またやらかしたか?)
木剣を構えていたライモンドが、驚きに目を見開いてこちらを振り返る。騎士も、練習場に控えていた従者や侍女も、皆がこちらを見た。
四歳の子供が、稽古の「足の動き」を評するなど常識外だった。
「……レオ、お前……今のが分かったのか?」
兄の声は真剣そのものだった。
私は逡巡した。だが兄の眼差しに押され、曖昧にはできなかった。
「はい。兄上は……剣を振ったあと、すぐに次に移れるように足を置いていました。だから強いのだと思いました」
その言葉に、場が再び静まり返る。
騎士は目を細め、しばしこちらを観察した。
「……ほう。若様は、よく見ておいでですな」
低い声で騎士が言った。
「レオ、剣を持ってみるか? 構えだけでいいぞ」
ライモンドが尋ねてくる。
その提案に、後ろで控えていた侍女が慌てて割って入ろうとした。
「ラ、ライモンド様、いけません! レオナルド様はまだ四歳になられたばかりです。木剣とはいえ、お怪我でもされたら奥様や旦那様に……」
「よいではありませんか」
重々しい声でそれを制したのは、指導を終えた教育係の騎士だった。
彼は木剣を地面に立て、顎髭を撫でながら私を値踏みするように見つめている。
「レオナルド様もまた、将軍たるアントニウス様の血を引く御方。たとえ三男であれ、いずれは領の防衛の一角を担う騎士となられる身。幼少より武具の重みを知ることは、決して無駄ではございませぬ」
騎士の言う通り、ここは前世の平和な日本ではない。魔獣や野盗、隣国の脅威が常に隣り合わせの国境地帯だ。
自分の身を最低限守る術、あるいは武器の理屈を知っておくことは、為政者の危機管理としても必須の教養といえる。
(まあ……形だけでも付き合っておくか)
私は木陰から立ち上がり、ライモンドの手から小さな木剣を受け取った。
ずしりと、四歳の未熟な腕に木材の重みが乗る。形を作るだけでも腕が震えそうだ。腕力だけで振り回せば、すぐに手首を痛めるか、木剣を取り落とすだろう。
(参ったな。体育の授業以外で剣など握ったこともないというのに……)
どうやら私は、特別なチート能力を与えられて転生したわけではなさそうだ。身体能力の何もかもが年齢相応なのだ。
前世の学生時代、授業で竹刀を振らされた記憶を手繰り寄せる。
幼い身体でこの重さを最も効率よく支えるには――。
私は無意識のうちに身体の重心を整え、両手で柄を握り直した。
右足を半歩前に出し、左足の爪先を正面へ向けて踵をわずかに浮かせる。両腕を自然に伸ばし、剣先をすっと持ち上げて――正面、相手の喉元へぴたりと向けた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、肩の力を抜く。
前世の剣術が長い年月をかけて基本形として磨き上げてきた――剣道の『正眼の構え』。
もっとも、私にとっては学生時代の体育で教わった程度の代物だ。
その瞬間、ざわりと周囲の空気が揺れた。
静寂が練習場を支配する。
「……え?」
ライモンドが、差し出しかけた足を止めて目を丸くした。
少なくとも私の知る範囲で、この世界に「剣道」という文化は存在しない。
この世界でこれまで目にした剣術は、利き手に剣、逆手に盾を持つものが主流だった。身体をやや半身に開き、武器を持つ側を前に出す。少なくとも、ライモンドたちが習っているのはそういう剣術だ。
両手で柄を握り、身体の正中を守りながら相手へ剣先を向ける。
どうやら、少なくともここで教えられている剣術とは大きく異なる構えらしい。
(これは、またやらかしたか……)
練習場に沈黙が落ちる。
ライモンドが、騎士が、侍女たちが、目を見張っていた。
「……その構え、どこで学ばれたのです?」
騎士の声が低く響く。
「剣なんて、初めてだけど?」
私は困惑した。
どう言いつくろうか。
「剣先で正面を制し、両腕を開かず、身体の中心を守る……。理には適っている。だが――ただ剣を握らせただけの四歳児が、偶然この形に辿り着くものか……?」
騎士は再び、感嘆とも言える声を漏らす。
ライモンドは驚愕の眼差しを弟に向け、やがて口元に笑みを浮かべた。
「……やはり、お前は特別な弟だな」
その言葉には誇らしさが混じっていた。
だが、周囲の人々の胸に刻まれたのは、やはり「普通ではない」という印象だったようだ。
私は木剣を下ろしながら、小さく息を吐いた。
(……いや、兄上。そんな目で見られても困る。これは前世で習った構えを真似しただけだ。私自身に剣の才能などない)
それにしても――。
(神様。どうせ転生させるなら、本物の剣術チートくらいつけてくれてもよかったんじゃないか?)
-----人物紹介-----
ライモンド・グレリオ
人族・10歳
グレリオ男爵家の長男
ロメロとは双子の兄弟で、レオナルドから見て六歳年上の長兄にあたる
父アントニウスを深く尊敬しており、将来は騎士として公国に仕えることを夢見ている
実直で真っ直ぐな性格で、家族思い
弟レオナルドにまつわる「泣かずの子」「悪魔憑き」といった噂を嫌い、幼い弟を庇うことも多い
幼少ながら剣術に優れた素質を見せており、現在は騎士から本格的な武芸の教育を受けている




