書庫にて
新緑の青葉が初夏の風に揺れ、館の北側に位置する書庫の高窓からは、淡く白い陽光が斜めに差し込んでいた。
分厚い切石の壁に囲まれた室内は、外の汗ばむような陽気から切り離されたようにひんやりとしており、古い羊皮紙と革表紙の匂いが漂っている。外光を拒むように高く小さく穿たれた窓から落ちる光条の中で、舞い上がる微細な埃がきらきらと琥珀色に輝いていた。
レオナルド様が二歳になられ、立って歩けるようになってからというもの、その行動範囲は日に日に広がっていた。とても聡い若様で、使用人の会話にもじっと耳を澄ませて理解しているような節がある。それがかえって、周囲から「泣かずの子」「不気味な若様」と気味悪がられる原因になっているのだけれど……。
あたしは十四歳になり、正式にこの館のメイドとして採用された。仕事にもずいぶん慣れたし、今は毎日がすごく充実している。ちょっと頼りないけど、思い人もできたしね!
ロザリンダさんから書庫の掃除を任されたあたしは、ホウキとハタキを抱えて二階の奥まった通路を進んでいた。
「……あれ? 開いてる?」
重いオーク材の扉の前に立ち首を傾げた。普段は固く閉じられているはずの扉が、留め金から外れ、指一本分ほど隙間を開けていたのだ。
心に緊張が走る。
ホウキの柄をぎゅっと握り締め、意を決し音を立てないよう静かに室内へ滑り込んだ。
整然と並ぶ高い本棚の列をひとつずつ覗き込みながら、足音を殺して奥へ進む。
(……いたっ!)
思わず息を呑んだ。床の上に広げられた巨大な革表紙の書物と、その前で行儀よく膝をついている小さな後ろ姿――淡い栗色の髪を揺らす、レオナルド様だった。
(……なにをしてらっしゃるの?)
あたしも館へ上がってから文字を習い始め、簡単な文章なら少しずつ読めるようになっていた。けれど、床に広げられた本に並ぶ難しそうな文字までは、とても読み取れない。それがどんな本なのか見当もつかない。けれど、二歳の幼児に読めるはずがないことくらいは分かる。絵本を破いて遊んでいるわけでもない。かといって、子供が絵本を眺めているような様子とも違う。
本当に文字を追っている――そう思えてしまうほどの、異様な集中ぶりだった。
でも、こういう常識外れな行動をとるのが、レオナルド様なのだ。
侵入者の正体が若様だと分かり、胸を撫で下ろし、ホウキを握る手の力を抜いた。驚かせないよう、努めて明るく普段通りの声をかける。
「何を読んでいらしたんですか?」
レオナルド様はびくりと小さな肩を跳ねさせ、こちらを振り返った。あたしの顔を確認すると、ほっと小さく息を吐き、再び本へと視線を戻す。
そして――次の瞬間だった。
「なんだ、フローラか」
幼い声に似合わない、落ち着き払った口調だった。
それ以上に奇妙だったのは、その言葉があまりにも自然だったことだ。
不意に声をかけられ、相手を確かめ、知った顔だと分かって安堵する――まるで大人がそうするような、ごく当たり前の調子で。
「……え?」
静寂が書庫を押し包む。あたしの口から、間の抜けた困惑の声が漏れた。
レオナルド様が、首の骨を折らんばかりの勢いでこちらに向き直る。その丸い顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
「ふ、ふりょーりゃ!」
両手を激しくバタつかせ、甲高い声を上げるレオナルド様。
(……え? いまの……聞き間違い、よね?)
◇
歩けるようになったことで、私の行動半径は飛躍的に拡大した。
この一年半で分かったことは多い。
ここはノルテン公国。その北辺を守るグレリオ男爵家が、どうやら私の新しい家らしい。
父アントニウスは領主であると同時に、公国軍の将でもある。
だが、まだ分からないことの方が圧倒的に多い。
だから私は書庫へ来る。
生活様式だけを見れば、前世の中世ヨーロッパに近い。だが、魔法が当たり前に存在する以上、単純に同じ物差しで測るわけにはいかない。
私は母や乳母の目を盗んでは、この館の書庫に通い詰めていた。
二歳児の身体では流暢に話すことはまだかなわなくとも、日常会話なら、もうほとんど不自由なく聞き取れる。
文字も、この一年でだいぶ読めるようになってきている。
この国の言葉だけではない。書庫には大陸の言語や古代帝国語で記された書物も少なくなく、それらも辞書代わりの本や対訳を頼りに、少しずつ意味を掴めるようになってきている。
完全に理解できるわけではない。それでも、文字が読めるようになれば手に入る情報量は飛躍的に増える。
その日もロザリンダが洗濯に出ている隙を突き、部屋を抜け出して書庫へ向かった。
書庫の扉の取っ手は、両腕をどれほど伸ばしても届かない。だが、近くの物置から持ち出した掃除用モップの柄を取っ手に引っ掛け、テコの原理で押し下げる。――カチリと留め金が外れた。慣れれば造作もない作業だ。
床に座り込み、低い棚から引き出した本を何冊か積み上げる。即席の踏み台だ。
それによじ登り、中段の本を物色していると、『古代帝国詩集』と書かれた分厚い一冊を見つけた。
(今日はこれにするか)
私はその一冊を床に下ろし、膝をついて分厚い表紙を開いた。
古代帝国――千年ほど前、中央大陸に存在したとされる超大国だ。魔族との大戦を制し、人類主導の秩序を築いたという。
千年以上前の街道や橋梁が今なお使われ、現在の技術では同水準のものを再建できないようだ。
(……世界が変わっても、人類は似た道を辿るものらしい。前世でも、古代ローマの街道や水道橋は、中世初期の技術水準を凌いでいたと読んだ覚えがある)
題名だけなら文学書だが、読んでみれば戦争、街道、都市、皇帝の事績まで節々に織り込まれている。歴史と思考の海に深く潜り込んでいた、その刹那だった。
背後で、衣擦れの気配が立つ。
気づいた瞬間には、頭上から屈託のない明るい声が降ってきていた。
「何を読んでいらしたんですか?」
誰かに見つかった――そう身構えた緊張が、一気にほどけた。
赤髪のメイド、フローラだ。少々おっちょこちょいだが、気立てはよく、昔から何かと私の世話を焼いてくれる。
最近、彼女は従士見習いのジェロットとかいう少年といい仲になったらしく、私をお守りする名目で「あいつったら気が利かなくて」などと愚痴をこぼしてくる。二歳児をつかまえて色恋沙汰の相談をするな、といつも内心で毒づいていた相手だった。
反射的に言葉が口をついて出た。
「なんだ、フローラか」
――言った刹那、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
(……しまっ……!)
完全に、素のトーンで返答してしまった。八十年間の習慣とは恐ろしい。執務室で秘書に声をかけられた時の調子そのままだった。
「……え?」
慌てて振り返るとフローラは困惑し、目を丸くして固まっている。少女の頭上で、巨大な疑問符が激しく点滅しているのが見て取れた。
やばい、不味すぎる!
悪魔憑き騒動の悪夢が脳裏をよぎる。せっかく法神の司祭から潔白のお墨付きをもらったというのに、二歳児がこんな声音で喋ったと知れれば、また何を言われるか分かったものではない。
「ふ、ふりょーりゃ!」
私は両手をぶんぶんと激しく振り回し、顔をくしゃくしゃにして驚いた幼児の真似をした。
(苦しいか……!? いや、押し通すしかない……っ!)
「あーうー! ほん、おっきい! えーがいっぱいー!」
渾身の幼児偽装。演技を重ねるごとに胡散臭さが増している気がして胃が痛むが、ここで引くわけにはいかない。
フローラは数秒間、狐につままれたような顔で私を見つめていたが、やがて「……やっぱり、空耳よね」と小さく首を振ってため息をついた。
胸中で盛大に安堵のため息を吐きながら、私は固く誓った。
――危機管理の基本は、徹底した擬態にある。
今さらながら、私はその基本を肝に銘じた。
-----歴史紹介-----
古代帝国
約千年前、中央大陸を中心に広大な版図を支配したとされる古代国家
魔族との大戦を制し、人類を中心とした大陸秩序を築いた超大国として知られる
道路、橋梁、都市設備など高度な建設技術を有していたとされ、当時築かれた街道や石橋の一部は、千年以上を経た現在も各地で利用されている
一方で、その技術体系の多くは帝国滅亡とともに失われており、現在の諸国では同水準の建造物を再現できないものも多い
古代帝国語は現在も学術・外交・宗教分野などで用いられ、貴族、聖職者、外交官などにとって重要な教養の一つとされている
-----国家紹介-----
ノルテン公国
アルビオン島中央部に位置する公国でアルビオン五公国の一つ
北方ではアルヴァ王国と国境を接しており、島内でも軍事的重要性の高い地域の一つ
国内には複数の貴族領が存在し、その北辺を守るリオネル男爵領はグレリオ家が治めている




