悪魔憑き
冬の始まりを告げる低く垂れ込めた鉛色の雲が、空一面を重苦しく覆っていた。
マナーハウス二階、領主執務室の小さな菱形ガラス窓からは、冷ややかな昼下がりの光が静かに差し込んでいる。窓の向こう、遠くにそびえる山肌には薄く白い残雪がへばりつき、隣接するリオネル城砦の武骨な石面が、寒風の中で鈍い光を返していた。
室内には、使い込まれた重厚な樫のデスクを囲むように、数人の男たちが押し黙って立っている。
デスクの上に積み上げられた羊皮紙の報告書や関所の通行記録の端を、私は無意識のうちに指先で強く押し潰していた。
「……もう一度言ってみろ」
報告の内容に苛立ちを抑えきれず、私の低い声が重苦しい室内に落ちた。
進み出た三十代の騎士が、苦渋に眉を歪めながら革の手袋をぎゅっと握り締める。
「……は。恐れながら申し上げます。館の従士、ならびに城下の民の間で……三男レオナルド様についての不穏な囁きが広がっております」
「不穏な囁き、だと」
「……若様は、この秋に突然お泣きになられなくなってから今日に至るまで……一度も愚図りもせず、腹が減っても声をあげぬと。そればかりか、大人の言葉を値踏みするかのように冷徹に見つめ返し、手足を無闇にばたつかせることもなく……。民共は、あれを『泣かずの子』と呼び、忌み嫌っております。……まことしやかに、『悪魔憑き』ではないかと」
執務室の空気が、さらに一段凍りついた。
(悪魔憑き、だと……?)
私の胸の奥に苛立ちが込み上げ、それに重なるように鈍い痛みが広がった。
脳裏をよぎるのは、レオナルドが泣かなくなってから心配そうに眉を曇らせる妻カタリナの姿だ。
『あの子はただ、少しおとなしいだけです……決して、悪い子ではありません』
そう言って震える手でレオナルドを抱きしめていた妻。乳母やメイド見習いも必死に庇ってはいるが、その瞳の奥に「正体の知れぬ幼子への微かな恐怖」が宿っていることを、私は見逃していなかった。
「馬鹿げた迷信だ」
沈黙を破ったのは、騎士パウロだった。彼は前に進み出ると、同僚の騎士たちを鋭い眼光で一喝した。
「レオナルド様はただ聡明であられるだけだ! まだ幼い身でありながら言葉の端々を理解し、聞き分けが良いだけではないか! それを悪魔憑きなどと、よくも軽々しく口にできたものだ!」
「パウロ、問題は若様が何者であるかではない。民が何者だと思っているかだ」
四十代の年配の騎士が、低く鋭い声で発言する。
「北から流民が入り続けています。冬を越すだけの蓄えもない者が増え、城下では穀物の値も上がっております」
文官の男が続ける。
「そこへ凶兆の噂です。何か起きれば、若様が原因だと言い出す者が現れましょう」
四十代の騎士が私を見て続ける。
「殿。これはもはや若様お一人の問題ではございません」
パウロは悔しそうに、発言した騎士や文官へ鋭い視線を投げる。
「……みな、落ち着け」
家臣たちの感情のぶつけ合いのおかげで、私は少し冷静さを取り戻し、短く制した。騎士たちは即座に口を噤み、直立不動で私を見つめる。
決断を確定させるように深く息を吐き出し、革張りの背もたれに体を預けた。片手を顎に添え、眉間に深い皺を刻み込む。
――自分自身、レオナルドのあの「瞳」には言葉にできない異様さを感じていた。
抱き上げたとき、他の子のように無邪気に笑うこともなく、まるでこちらの言葉の意味まで理解しているかのような、底知れぬ静寂をたたえた双眸。幼子のそれとは到底思えない、老練な気配。
だが――あの子は、妻カタリナが腹を痛めて産んだ、我が血肉を分けた息子なのだ。
(噂を放置すれば、領内が割れる。だが、我が子を頭ごなしに疑うことなどできん……)
迷いを断ち切るように、顔を上げる。
「……教会へ使者を出せ」
重々しい声が執務室に響く。騎士たちが一斉に視線を集中させた。
「法神トゥーロスの司祭をこの館へ招く。……レオナルドの鑑定を執り行わせる」
パウロが目を見張り、たまらず声を震わせた。
「殿、司祭を……でございますか。しかし、もし万が一にも神託が思わしくない方へ転べば、若様のお立場が……」
「これ以上、不確かな風評で館と領内を腐らせるわけにはいかん。白黒をつけねば、あの子自身が一生、日陰者として後ろ指を指され続けることになる」
私は立ち上がり、窓外の冷たい空を見据えた。
「法神の裁定をもって、悪魔の疑いを晴らす。……あの子が我がグレリオの血を引く、ただの聡き子であると、公の場で証明する」
◇
執務室での決定から二ヶ月。年が明け、冬の終わりを告げる淡い陽光が、大ホールの高い高窓から差し込み、広い石畳の床に長い光の筋を描いていた。
吹き抜けの天井へと続く広々としたホールには、巨大な石造りの暖炉から熱気が立ち上り、パチパチと薪が爆ぜる音とともに、ほのかに香の煙と薪の匂いが混ざり合って漂っている。
正面にそびえる重厚な中央階段のふもと、微かな冷気と暖炉の温もりが交差するその空間に、静寂を纏った人々が集っていた。
中心に立つのは、流れるような聖服を身に纏った法神トゥーロスの司祭だ。厳かな手つきで銀の法具を掲げ、低く朗々とした声で祈祷の言葉を紡ぎ出しながら、静かに儀式を執り行っている。
それを少し離れた位置で見守るのは、領主アントニウス。仕立ての頑丈な上着に身を包み、灰色の瞳に神妙な色をたたえてまっすぐに前を見据えている。その背後には、胸甲を付けたパウロら騎士たちが整然と控え、息を殺すようにして儀式の行方を見守っていた。
アントニウスの隣には、毛布でしっかりと包まれた幼子を胸に抱く妻カタリナの姿があった。彼女は愛おしむように我が子を腕の中で抱きかかえながらも、その眉根をわずかに寄せている。無垢な幼子の温もりを確かめるように細い指先を添えつつ、彼女の不安げな眼差しは、司祭の動く手元と掲げられた燭台の小さな炎から片時も離れなかった。
高い天井へ吸い込まれていく司祭の祈りの声だけが、ホールに響き渡る。
レオナルドは、変わらず静かだった。その父と同じ灰色の瞳は据わり、規則正しい呼吸を刻んでいる。
やがて司祭は幼子の前に跪き、そっと掌をかざして瞼を閉じた。
……私からすれば、滑稽な茶番だった。
齢八十まで生き、百戦錬磨の政治の修羅場をくぐり抜けてきた私が、いまさら「赤子のように無意味に泣き叫ぶ」ことなどできるはずもない。それを「悪魔憑き」だの「凶兆」だのと騒ぎ立てられ、わざわざ教会の坊主まで呼んで公開鑑定とは。
演説や委員会答弁ならいくらでも言葉を尽くせるが、赤子の泣き真似ばかりは門外漢だ。ぐずる稽古をしようにも教本などなく、指南役もいない。そもそも「何の感情の脈絡もなく大声で泣く」という高度な演技は、八十年間大人の仮面を被り続けてきた老政治家には、あまりにハードルが高すぎる。
この肉体で目覚めてから数ヶ月。私はただ、この異世界を観察し、言葉を拾い、現状を分析してきただけだ。それでも周囲の不安と誤解は勝手に膨らみ、尾ひれのついた物語となって歩き出してしまう。
――根拠なき風評被害。
この理不尽さは、前世の政界となんら変わりない。
だが、私の胸を刺したのは、風評そのものではなかった。
母カタリナの、私を抱きしめる腕の震えだ。
噂を耳にするたび、この人はどれほど心を痛めてきたことか。
薄暗い部屋の中で、この母は不気味なほど泣かない私を拒絶することなく、ただ愛おしそうに抱き上げ、頬を寄せてくれた。
その温もりと、腕に込められた切実な強さだけが、かつて権力闘争に明け暮れて家族を顧みなかった私の老いた心を、静かに包み込んでいた。この母の無償の愛こそが、この不条理な世界で得た、何よりの安らぎだったのだ。
司祭の手が私の額に近づく。
何事か神への祈りのようなものを呟いている。
母の私を抱く力が少し強くなるのを感じた。
父も兄姉も固唾を飲んで見守る。
魔法で鑑定するのか。まあ、火を点ける魔法があるくらいだ。ない話ではない。
――そういうところだぞ、源次郎。
こんなときまで分析を始める自分を、胸中で窘める。
長いな。採血でももう終わってるぞ。
司祭は目を閉じたまま、まだ祈りに似た呪文を唱えているようだ。
この世界の魔法がインチキではないことを祈ろう。
これで悪魔だなどと鑑定されてはいきなりバッドエンドだな。
そんな皮肉を胸中で弄びながら、私は司祭の鑑定を待つ。
ゆっくり手を下した司祭は、静かに答えた。
「……悪しき霊の気配は微塵もございません。心身ともに穢れなく、法神の御前に何ら恥じるところなき御子にございます」
司祭が厳かに告げた瞬間、大ホールの空気がふわりと緩んだ。
父アントニウスも、母カタリナも、背後に控えていた兄たちや家臣たちも、一斉に胸を撫で下ろして安堵のため息を漏らす。
(泣けぬことが、これほどの大事になるとはな……)
私は改めて、この世界の常識と自分自身の乖離を痛感していた。
父が一歩前に出ると、ホール全体に響き渡る声で静かに、しかし力強く宣言した。
「皆、聞いたな。レオナルドは何者にも憑かれてはおらん。我が子を疑う言葉はこれ以上断じて許さん。……噂を運ぶ舌は、領の秩序を傷つける刃と知れ」
領主としての威厳に満ちた、非の打ち所のない演説だった。
だが、これだけで市井の噂というものが完全に消え去らないことを、私は知っている。一度広がったデマは、否定されればされるほど、別の形に姿を変えて地下に潜るものだ。
それでも、男爵家の公式見解としての「けじめ」にはなった。
(……私も、もう少し子供らしく立ち回る工夫をせねばならんな)
母の腕の中で揺られながら、私は内心で苦笑した。
(そうか。こうして冷徹にリスク管理を考えている精神そのものが、すでに子供らしからぬということか)
――泣かずの子。
その名で呼ばれることは、まだしばらく続くだろう。
泣かないことが赤子として不自然なのは、以前から分かっていた。何度かそれらしく振る舞おうともしたが、役者でもない私にはいささか難しい。
ならば、当面は「うまく目立たぬ」術を身につけるしかない。
泣く練習は……まあ、当面の保留課題だ。
まずは観察し、この世界の仕組みを理解する。それが今の私にできる唯一の生存戦略だ。
大ホールの高窓から差し込む光が、冷たい石床の上に淡い矩形を描いていた。
足元に落ちた光の中で、埃がきらきらと舞い踊っている。
私は母の温かな腕の中で、その光の粒を、じっと静かに見つめ続けていた。
こうして私は「泣かない子」としての奇名を領内に残すことになったのである。
-----人物紹介-----
アントニウス・グレリオ
人族・28歳
リオネル男爵領を治めるグレリオ男爵家現当主
北方国境の守備を担う武門の家に生まれ、領政とリオネル城砦の管理を統括する
灰色の髪と瞳、鍛えられた頑健な体躯を持つ
華美を好まず、実務と領内の秩序を重んじる性格
妻カタリナとの間に子をもうけており、家族への情は深い




