異世界
秋の陽が低く傾き、二階の廊下には小窓を通した深い橙色の光が斜めに長く伸びていた。日に日に日没は早まり、石壁と太い木組みでできた廊下の奥には、冷ややかな薄暗がりが溜まり始めている。
重々しいオーク材の扉が静かに開き、質素な白と黒の衣服をまとった、華奢な赤髪の少女が廊下へ姿を現した。振り返って室内へ深々と一礼すると、音を立てないよう扉を閉める。
次の部屋に向かってゆっくりと歩き始めた少女は、夕闇の迫る廊下の壁際、二つの部屋の間に据えられた金属の燭台の前で足を止めた。
少女がワンドを掲げると、小さな火が燭台へ飛び、芯に明かりが宿った。
パチ、と微かな音を立てて小さな炎が宿り、琥珀色の柔らかな光が広がった。冷え込み始めた廊下の床板を温かく照らし出す。
少女の名はフローラ。今年十二になる、近隣の農村出身のメイド見習いだった。
自分で灯した明かりを背に受けながら、フローラは静かな足取りで隣の部屋の扉へ近づき、その取っ手へとそっと手をかけた。
◇
農夫の娘だったあたしが男爵様のお館で働けるなんて、今でも少し信じられない。
生まれながらに炎の精霊の加護を持っていたこともあって、館のメイド見習いとして採用されたのだろう。主な仕事はレオナルド様のお世話と、館の燭台に火を灯すことだ。
あたしはそんなことを考えつつ、いつものように燭台に火を灯して館を回っていた。
粗い切石の壁には、湿気と古い石灰の匂いが染みついていた。火を灯すたび、冷たく薄暗かった廊下が少しずつ暖かな色に変わっていく。壁に伸びたあたしの影も、歩くたびに大きく揺れた。
男爵夫妻の部屋の燭台を灯し終えると、次はレオナルド様のお部屋だった。
扉の前で通路の最後の燭台に火を灯し終えたとき、あたしは静かに息を吐いた。
「起こさないように、そーっと……」
あたしは小さく呟いて部屋の前に立つ。
小さくノックをして部屋に入ると、暖炉の温かな空気が肌を優しく包んでくれた。木製の小さなベッドの脇には、椅子に座って編み物をしているロザリンダさんがいる。こちらを振り返り、「ご苦労さま」と微笑んでくれた。
レオナルド様。男爵様の三男で、生後半年。
そう、少し前から突然泣かなくなった不思議な子だ。
カタリナ夫人もロザリンダさんも、レオナルド様をひどくご心配なさっている。あたしもそうだ。
でも、レオナルド様の目は泣かなくなってから明らかに変わったように思う。
じっとこちらを観察するような……そんな底知れない感じがする。
なにか悪いものが憑いたんじゃないかって、本当に心配になる。表情もあまり変わらない。泣かないだけじゃなく、ニコニコとあたしの指をギュッと握ってくれることもなくなった。
本当にどうしてしまわれたんだろう……。
部屋は日当たりが良いせいか、火を灯していないがまだかなり明るかった。それでも、あたしは自分の役目を行う。
壁の燭台の前に立ち、小さく呪文を唱える。
「炎の精霊よ。力を貸して……。レウル・ハム・レドニア」
ワンドの先に、親指の爪ほどの赤い火が生まれた。
火はゆっくりと燭台へ移り、芯に触れた瞬間、ちちっと音を立てて燃え上がった。
ふと小さなベッドに目をやると、レオナルド様は目を大きく見開いて、まるで驚いたような表情でこちらを見ていた。
魔法に興味があるのかしら?
レオナルド様をあやすように、人差し指で頬を優しく撫でる。
プニプニとした柔らかい感触が手に伝わる。レオナルド様は両手でワンドを掴もうともがいている。
「これは危ないですよ」
にっこり微笑みながら、久しぶりの赤子らしいレオナルド様とのコミュニケーションを楽しんだ。
◇
見た。確かに見た。
少女が呪文らしきものを唱え、杖の先から火を生み出した。
隠し持った着火具か。何らかの化学反応か。
いや、違う。
少女の手元から離れた赤い光が、空中を移動して芯へ触れた。あれを手品で片付けるには無理がある。
……魔法?
突拍子もない想像が頭をよぎる。
ここは過去ではない。
異世界だ。
あれだ! 最近若い奴らの間で流行っている異世界転生というやつだ。
私は若者の文化にも理解があり、漫画や小説なども概要程度は理解しているつもりだ。現代で命を落とした人間が、特殊な力を与えられ、別の世界で第二の人生を送る。たしか、そういう物語だったはずだ。
しかし、待て。
秘書の高坂から聞いた話では、流行りでは女神が出てきてなんとかかんとか……。
私は女神にも神にも会っていないぞ?
そもそも言葉もわからんとか、ハードモードすぎんか?
そのうち能力に目覚めて、魔王でも倒せっていうのか?
とにかく、これまで集めた情報を大きく修正する必要がある。
ここは異世界で、魔法が存在する。
少なくとも現時点では、元の世界へ戻る手掛かりなど何ひとつない。
女神もいない。言葉も通じない。与えられた特別な能力があるのかも分からない。
ならば、頼れるのは自分の頭だけだ。
まずは言葉を覚える。
そして、この世界の仕組みを知る。
すべてはそこからだ。
-----人物紹介-----
フローラ
人族・12歳
グレリオ男爵家のメイド見習い。近隣農村の農夫の娘
三男レオナルドの誕生を機に館へ奉公に上がる
炎の精霊の加護を持ち、簡単な生活魔法を扱えることから、レオナルドの世話と館内の燭台の管理を主な役目としている
燃えるような赤髪とそばかす、華奢な体つきが特徴。本人はその目立つ容姿を好んでいない




