始動Ⅰ
アントニウス閣下の凶報がもたらされてから、すでに数時間もの時が流れていた。
外では相変わらず暴風雨が狂ったように吹き荒れ、執務室の分厚い硝子窓を激しく打ち据えている。だが、冷え切った室内に満ちているのは、嵐の轟音を完全に呑み込んでしまうほどの重苦しい沈黙だった。
執務机の奥、常に閣下が座しておられた黒革の椅子に腰かけたロメロ様は、あれから一度として顔を上げていなかった。
力なく両腕を投げ出し、机に伏せるように深くうなだれたまま、微動だにしない。先ほどまで「摂政」として毅然と領政の判断を下していた青年の姿はそこにはなく、ただ突然に父親を奪われ、世界の崩壊に打ちひしがれる十八歳の少年の脆弱さだけが剥き出しになっていた。
部屋の入り口に最も近い椅子には、家令のバルド老が深く腰を沈めていた。
普段であれば、家中誰よりも早く次の一手を指示する歴戦の老臣が、肘掛けに無造作に腕を預け、虚ろな眼差しでただ天井を仰ぎ見ている。その刻まれた深い皺の一つ一つに、言葉にならぬ苦悶と絶望が影を落としていた。
……そして、私自身もまた、彼らと何ら変わらぬ有様だった。
眼鏡の奥で固く目を閉じ、必死にこれからの手筋を思考しようとするのだが、心は千々に乱れ、まるきりまとまらない。
妹の忘れ形見であるマティルダやマルチェロの顔、出征軍に残された長男ライモンド様の安否、そして何より、長年この男爵家の屋台骨として仰ぎ見てきたアントニウス閣下という大樹を失った喪失感が、冷たい濁流となって私の理性を押し流してしまう。宰相などと名乗りながら、いざその柱がへし折れた瞬間、私は己がどれほど閣下の剛腕に寄りかかっていたのかを思い知らされていた。
ふと視線を落とせば、あの底知れぬ才覚を誇るレオナルド様でさえも、明らかな動揺を隠せずにいた。
普段の大人びた冷徹さはどこへやら、落ち着かない足取りで大荒れの天候を窓からじっと見つめたかと思えば、踵を返し、何かの物思いに耽るように執務室内を無意味に歩き回っている。
十二歳という幼さでこの男爵領の改革を牽引してきた神童も、肉親の死と、その後に訪れるであろう巨大な政治的破滅の予感の前に、為す術なく立ちすくんでいるように見えた。
時計の針の冷酷な音だけが、茫然自失の四人を嘲笑うかのように、規則正しく部屋に響き続けていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、雨風を突き破って届いた続報の早馬だった。
執事が再び執務室の扉を開け、息を乱しながらもたらしたその書状――そこに記されていた事実は、私たちの凍りついた思考をさらに底知れぬ暗黒へと叩き落とした。
アントニウス閣下は、戦場で命を落としたのではない可能性が高い。
書状には、毒、あるいは刃によって何者かに謀られた――暗殺の疑いがあると記されていた。
「……う、ああぁぁっ……! アントニウス様……何たることじゃ……!」
その言葉が落ちた瞬間、天井を仰いでいたバルド老が両手で顔を覆い、子供のように大声で嗚咽を漏らした。
幾多の修羅場を共にくぐり抜け、主君を我が子のように、あるいは己の半身のように支え続けてきた老臣が、背中を激しく震わせて涙を流している。主君が戦場で刃折れ矢尽きて散ったのではなく、卑劣極まりない謀殺によって命を奪われたという理不尽が、老いた胸を無慈悲に引き裂いたのだ。
一方、机に突っ伏していたロメロ様は、二度目の凶報によって無理やり過酷な現実の淵へと引き戻されていた。
虚ろだった瞳に剥き出しの絶望と動揺が甦り、耐えきれなくなったように椅子から崩れ落ちると、床に両膝をついた。
暗殺――それは単なる不幸な事故でも戦禍でもない。明確な悪意と企みを持った何者かが、グレリオ家そのものを標的に定めて動き出したという決定的な証拠だ。父を失った悲痛と、次男としてこの家を背負わねばならない重圧、そして見えざる敵への恐怖が一度に押し寄せ、青年の心を完全に圧折していた。
……私とて、溢れそうになる動揺を抑えるのに必死だった。
謀略の手がすでに閣下の命を奪うところまで伸びている。次は誰だ? この城砦か? それとも遠征軍に残された長男か? 宰相としての危機感が警鐘を乱打し、背筋を生々しい冷汗が伝い落ちていく。
だが、そんな慟哭と絶望が渦巻く部屋の中で――ただ一人、異様な空気を纏っている者がいた。
レオナルド様だった。
先刻までの落ち着きのない歩みはピタリと止まり、十二歳の末弟は、右手の指を顎に当てたまま、身じろぎもせず立ち尽くしていた。
泣き叫ぶことも、取り乱すこともない。
その双眸は、感情の波をすべて削ぎ落としたかのように冷徹で、深く、暗い淵のような光を宿し、ただ一点を見据えて思考の海へと沈潜していた。
まるで、すでに父の死という感傷の段階を飛び越え、「なぜ暗殺されたのか」「仕掛けた黒幕は誰か」「次に起きる事態は何か」という冷酷な盤面を、猛烈な速度で読み解いているかのように。
任務を果たした執事が、耐えがたい空気の重さに耐えかねるように深く一礼し、音もなく執務室のドアを閉めて退出していった。
バタン、とラッチが噛み合う小さな音が落ちる。
バルド老の押し殺したしゃくり上げと、激しさを増す嵐の音だけを残し、室内には再び、先ほどよりも遥かに冷酷で重い沈黙が支配していった。




