雷鳴Ⅰ
春の柔らかな日差しが、マナーハウスの窓辺を暖かく照らしていた。
昼食を終えたばかりの午後、執務机にうずたかく積まれた書類の端を整え、私は深く、長く息を吐き出した。
父上から「摂政」の任を命じられてから、今日でちょうど一週間が経つ。
この七日間というもの、朝から晩まで決裁と折衝の連続だった。
出征に伴い手薄となった国境や関所の防備体制の再編、領内巡回ルートの見直し、各村から寄せられる春の作付けに伴う陳情の処理、さらには手持ち無沙汰になった下級騎士たちの不満のガス抜きまで――。
次から次へと持ち込まれる判断のすべてが、領民の暮らしや家の命運に直結している。
(父上は……これまでずっと、これほどの重圧の中で領地を差配しておられたのか)
机の上に置かれた決裁用の印章を見つめながら、改めて父の器量に驚嘆するしかなかった。一週間務めただけで胃の腑が軋むようなこの責務を、父は長年にもわたって背負い続けてきたのだ。
張り詰め通しだった神経を少しだけ緩めるべく、私は人心地ついた春の陽気に誘われるようにして、気分転換にマナーハウスの庭先へと足を向けた。
外へ出ると、花壇の若草の香りを乗せた心地よい微風が頬を撫でる。
うららかな陽光を浴びながら手入れの行き届いた小道を歩くうち、私の心は、知らず知らずのうちに彼女の元へと飛んでいた。
(……フェリシア)
頭部に緩やかな羊の角を戴く、ファウン族の少女。
父の出征と自らの摂政就任という怒涛の日々に追われ、彼女と顔を合わせられなくなってから、もう十日も経っていた。
いま何をしているだろうか。元気に笑っているだろうか。
会いたい。一目だけでも、あの穏やかな笑顔を見たい。
だが、その思いを私は胸の奥へ押し戻した。
いまの私は、父の名代として領地を預かる摂政なのだ。私情に溺れて職務を疎かにすることなど、決して許されない。
私は頬を軽く叩いて自らを戒めると、名残惜しさを振り切るようにして執務室へと足早に戻った。
部屋に戻ると、書類を整理していた宰相ゲオルグ様が、眼鏡の奥の瞳を和らげて顔を上げた。
「ロメロ様、ちょうど良いところへ。先ほど、領内視察に赴かれていたレオナルド様より早馬が届きました」
「レオから? 確か、予定では明日戻るはずでは……」
「ええ。視察が極めて順調に進んだとのことで、予定を繰り上げ、今日の夕刻にはこの城砦へ帰還されるとのことです」
「そうか……つつがなく終わったようで、何よりだ」
末弟の無事な報せに、胸のつかえが一つ下りる。
私は手帳をめくり、家令バルド老の本日の予定を確認した。
「ゲオルグ様、バルド老の夕刻の手は空いていますか?」
「……ええ、倉庫の棚卸しの立ち会いを終えれば、特に差し迫った用向きはございませんな」
「ならば、レオが戻り次第、バルド老も交えて夕食を共にしながら視察の報告を聞く席を設けましょう。あの子の見てきた領内の生の声は、これからの防衛や内政の判断にも大いに役立つはずですから」
「良きお考えかと存じます。すぐに厨房へその旨を伝えておきましょう」
ゲオルグ様は静かに一礼すると、厨房へ伝えるため部屋を後にした。
留守を預かる者同士、今夜は少し腰を据えて弟を労い、領地の今後について語り合おう――そう考えた私の心には、束の間の安堵が広がっていた。
執務室の窓からは、変わらずうららかな春の陽光が差し込み、石造りの床を黄金色に染めている。
だが――。
何気なく窓の外へと視線を向けた。
穏やかに晴れ渡る頭上の青空とは対照的に、遥か西の稜線から黒々とした暗雲が広がっていた。
しかも、それは目に見えてこちらへ近づいている。




