疑念Ⅰ
潮の香りと海鳥の鳴き声が混じり合う中、私は春の乾いた風を浴びながら、港町リンクスの木製桟橋に立っていた。
目の前には、白波の向こうから入港してきた中型帆船が、舳先を軋ませながら接岸する光景が広がっている。その横で、帳簿を抱えたリンクスの代官が、私に歩調を合わせながら恭しく説明を続けていた。
「――レオナルド様、ご覧の通り、喫水の深い大型船舶の受け入れにつきましては、湾内の水深や暗礁の配置といった港湾条件の制約上、現状ではやはり中型船までの入港が限界となっております」
「ええ、想定の範囲内ですよ。航路の浚渫工事や大規模な防波堤の築造となれば、男爵家単体で背負える予算規模を遥かに超えてしまいますからね。それは追々、公国全体の物流戦略と絡めてヴァイシス公を巻き込みながら進めるとしましょう」
代官の報告に頷きつつ、私は桟橋から陸側の倉庫群へと視線を移した。
大型船が入港できないという天然の地形的ハンデこそあれど、桟橋から倉庫への荷下ろしの動線に関しては、私が示した計画に沿って、見違えるほどの改善を遂げていた。
頭上では、滑車とロープを組み合わせた原始的ではあるが木製クレーンが、重い木箱や麻袋を軽々と吊り上げて桟橋へと下ろしている。さらに、桟橋の床面には頑丈な木製レールが敷かれており、荷を載せたトロッコが、わずかな人力や馬力で滑るように倉庫街へと運ばれていく。
力任せに男たちが背負って運んでいた七年前の無秩序な港と比べれば、荷役の回転率は数倍に跳ね上がり、格段に機能的で使いやすい港湾へと変貌を遂げていた。
(港湾のボトルネックは確実に解消されつつあるな)
鉄道網などないこの世界において、船舶による水運こそが、一度に大量の物資を長距離輸送できる最も効率的な手段だ。
穀物であれ、特産の羊毛であれ、鉱石であれ、物が円滑に動かなければ富は滞留し、産業は育たない。物流を支えるインフラを整えることは、すなわち領内の経済活動の血流を支えることと同義なのだ。
ふと、青く広がる水平線を眺めながら、私は前世の記憶の片隅にある「お約束」を思い返して小さく苦笑した。
この世界に転生して十二年になるが、いわゆる異世界ファンタジー小説で定番の「何でも無尽蔵に収納できる便利な魔法のバッグ」などという代物には、今のところ一度もお目にかかったことがない。
いや――冷静に考えれば、そんなものがあるはずはない。
もし仮に、数トンの食糧や建材をポケット一つに入れて運べるようなマジックアイテムが安価に、あるいは一部の特権層だけでも日常的に普及していたとしたらどうなるか?
大量輸送に人員も馬も船も必要ないのなら、街道沿いに町が栄える理由も、港が富を集める理由も、物流拠点を巡って領主たちが争う理由すら変わってしまう。
なにより、軍事における「兵站」の常識そのものが根底から覆る。
食糧や矢弾を無尽蔵に運べる鞄があるなら、何百台もの荷車を連ね、輜重隊を編成し、補給路を守るために兵を割く現在の軍隊など成立しない。
兵糧攻めも、補給線の遮断も、行軍距離の限界も、今とはまったく別のものになっているはずだ。
だが、現実はそうなっていない。
この世界は、数千年にわたって泥臭い歴史を積み重ねてきた。
国家を築き、街道を整え、港を造り、軍隊を維持し、貴族社会という統治機構を今日まで存続させてきた。
その歴史そのものが、そんな都合のいい便利道具など存在しないという何よりの証明だった。
同じ理由で、軍勢や物資を一瞬で別の場所へと転移させる「瞬間移動の魔法」といったものも、この世界にはあり得ない。
もし軍勢や大量の物資を自在に空間転移させられるなら、城壁も、峠も、国境も、防衛線も、現在の形では意味を成さない。
だが、人々は何百年、何千年もの間、城を築き、街道を押さえ、橋を守り、峠を巡って争ってきた。
その歴史が残っている以上、少なくともそんな力は存在しない。
魔法という神秘が存在するとはいえ、物理法則と経済の根本はどこまでも地続きで、現実的で、持続可能。
そう、この世界は異世界ではあるが――どこまでも「持続可能な異世界」なのだ。
(だからこそ、地道なインフラ整備と制度改革に汗を流す価値がある……)
滑車のきしむ音とトロッコの滑らかな車輪の音を聞きながら、私は確かな手応えを胸に刻んでいた。




