出征Ⅲ
重厚な黒革の椅子に身を沈めた瞬間、私は胃の腑が鉛のように冷たく沈み込んでいくのを覚えた。
そこは、常に父アントニウスが座り、領内の一切を差配してきた「男爵の座」であった。
机の上に広げられた公文書の山、部屋の隅で静かに爆ぜる暖炉の薪。普段と変わらぬはずの執務室の光景が、いまや私一人を押し潰そうとする巨大な重圧となって四方から迫ってくる。
出陣の直前、広場に響き渡った父の厳格な声がいまだ耳朶から離れない。
『ロメロ! そなたを、私が帰還するまでの間、男爵領の「摂政」に任ずる!』
摂政――領主が長期間領地を離れる場合、あるいは当主が幼少・病床などにより政務を執れぬ場合、その名代として統治権を預かる役職。
任命された者には、領主本人が帰還するか任を解くまでの間、領政・司法・軍務に関する広範な決裁権が認められる。
本来であれば、武門の嫡子たる兄ライモンドが務めるか、あるいは長年この家を支えてきた家令バルド老や宰相ゲオルグ様が就くべき立場だ。まだ十八歳の武の面でも中途半端なこの私に、領民の生殺与奪の権限が委ねられたのだ。
椅子の肘掛けを握る指先が、知らず知らずのうちに白くなるほど力んでいた。呼吸が浅くなり、額に冷たい汗が滲む。
(私に……本当に務まるのだろうか。もし私の判断一つで、この領地が傾くようなことがあれば……)
胸を締め付ける怯えと自問自答を断ち切るように、執務机の前に立つ老家令の咳払いが静寂を破った。
「――ロメロ様。恐縮ながら、感傷に浸っている猶予はございませぬぞ」
白髭を蓄えたバルド様が、机の上に一枚の領内地図を広げた。その隣には、法務と外務を取り仕切る宰相ゲオルグ様が控えている。
「は、はい……申し訳ありません、バルド様」
「いえ、慣れぬ重責に気圧されるのは当然のことにございます。……しかし、現状は待ってくれません。まず、我が領の現在の防衛状況についてご説明いたします」
バルド老が指先で地図の要所をなぞった。
「アントニウス様とライモンド様が公国軍として出征されたことにより、領内に残る正規の戦力は平時の半分以下にまで落ち込んでおります。加えて、領境の山脈や街道筋の警戒を緩めれば、この隙を突いて野盗や魔物が雪崩れ込みかねませぬ。何より優先すべきは、国境および境界域の警備体制の徹底にございます」
「……左様でございますな」
ゲオルグ様が静かに言葉を継いだ。
「手薄となった領都リオネルの防衛も極めて繊細な判断を要します。現在、城砦に残る下級騎士たちと、各地に展開する自警団との力関係は極めて危うい。万が一にも領都近辺で治安の乱れが生じれば、家中を揺るがす火種となりかねません。騎士たちの配置と自警団の巡回ルートの再編、これを急ぎ決裁していただきたく存じます」
二人の重臣から突きつけられる、具体的で切迫した防衛の課題。
私は大きく息を吸い込み、乱れそうになる思考を必死に手繰り寄せた。
幸いにして、私は魔法の素養と共に内政の数字や書類の扱いを学んできた自負はある。父の代行として、二人の補佐を受けながら防衛計画の修正案を吟味し、一手ずつ言葉を絞り出すようにして指示を返していく。
そして――もう一つ、私の肩に重くのしかかる現実があった。
「……レオナルドは、予定通り領内視察へ?」
私の問いに、ゲオルグ様が深く頷いた。
「ええ。レオナルド様は先ほど、春の領地視察のため、一週間の予定で出立されました」
末弟のレオナルド。
まだ十二歳、成人すら迎えていない幼い弟だ。しかし、四圃式農法を確立し、自警団を組織し、流通を刷新してこの男爵領に未曾有の富をもたらしたのは、他ならぬあの子の知謀であった。
いまや、あの子はこのグレリオ男爵領という巨大な車輪を回す、欠くべからざる「要」そのものなのだ。
(本来なら、あの聡明なレオがここにいてくれたなら、どれほど心強かったか……)
弱気な本音が喉元まで出かかり、私は慌ててそれを飲み下した。
情けない。十二歳の弟に縋り、留守を頼ろうなどと、兄として、そして摂政として恥ずべき甘えだ。領内の現場を駆け回り、必死に汗を流している弟に、これ以上城砦の政治的な重荷まで背負わせるわけにはいかない。
父上は、戦場へ向かわれた。
兄上も、武門の誇りを胸に命懸けの初陣へと赴かれた。
ならば――この城砦と領地を守り抜くことこそが、残された私の、次男としての戦いなのだ。
私は背筋を正し、深く深く息を吐き出した。
まだ心臓の奥でくすぶる恐れを、冷たい覚悟の炎で包み込んでいく。
「バルド様、ゲオルグ様。……至らぬ身ではありますが、父上が無事にご帰還されるその日まで、このグレリオ家の安寧を保つため、持てる力のすべてを尽くす所存です。どうか、私に力を貸してください」
深々と頭を下げる私に、バルド様とゲオルグ様は一瞬目を見張り、やがて力強く、頼もしげに頷いてみせた。
父の不在を守り抜く。
グレリオの血を引く男として、私は自らの胸の内に、決して折れぬ誓いを静かに立てていた。
-----設定紹介-----
摂政
領主本人が長期間領地を離れる場合や、当主が幼少・病床などの理由で政務を執れない場合、その名代として領地の統治を預かる役職
任命権は原則として領主本人にあり、正式に任命された摂政には、任期中の領政・司法・軍務などに関する広範な決裁権が与えられる
ただし、摂政はあくまで領主の代理人であり、家督そのものを継承するものではない
領主が帰還するか、正式に任を解かれた時点でその権限は失われる
グレリオ男爵アントニウスは今回の出征に際し、次男ロメロを自らの帰還までの摂政として正式に任命した




