出征Ⅰ
マティルダがレムノ辺境領へと輿入れしてから、早くも一年の月日が流れていた。
冬がようやく終わりを告げ、城砦を取り巻く木々が春の柔らかな芽吹きを迎える頃、公都ノルデンへ使節として赴いていた宰相ゲオルグが、埃に塗れた旅装のままマナーハウスへと帰還した。
執務室の扉が開き、室内に入ってきた宰相の手には、ノルテン公国の最高権力者――ヴァイシス公直々の封蝋が押された親書が握られていた。
「閣下、ただいま戻りました。……ヴァイシス公よりの命令でございます」
ゲオルグから恭しく差し出された親書を開き、流麗な文字に目を走らせる。
内容は、マルケン公国との国境地帯で生じた小競り合いに対処すべく、公国軍将軍の一人である私に対し、公国軍の一部隊を率いて直ちに出征せよ、という動員令であった。
「……やれやれ。ここ数年はおとなしかったのだがな」
羊皮紙を机に置き、私は思わず苦々しい感想を漏らした。
報告を携えてきたゲオルグも、深いため息をついて肩を落とす。私とゲオルグの二人は、この小競り合いが公国同士の命運を賭けた全面戦争にまで発展するなどとは、端からこれっぽっちも思っていなかった。
理由は単純至極。これは国家間の領土侵略などではなく、国境を挟んで隣り合う「厄介な領主同士の個人的な不仲」が引き起こす、定期的な茶番劇に過ぎないからだ。
ノルテン公国側の国境領主は、モンターニャ伯セルジオ・アンコーナ卿。
公国内の旧来の秩序を奉じる「貴族派閥」の筆頭とも言える権勢家だ。
そして、国境の向こう側であるマルケン公国側の領主もまた、自国内で強大な発言力を持つ大物貴族である。
この傲慢でプライドの高い二人の領主が、些細な利権や過去の遺恨から小競り合いを演じ、それに両公国が揃って巻き込まれている――というのが、この国境紛争の情けない真の構図であった。
だが、どれほど馬鹿馬鹿しい意地の張り合いであろうと、ノルテン公爵家としては庇護下にある領主を見殺しにはできない。相手が他国である以上、公国を預かる公爵家には「外敵から国内の臣民を防衛する」という統治上の絶対的な義務が発生してしまうのだ。「自分たちで勝手に解決しろ」と突き放すわけにはいかないのが、この貴族社会の頭の痛い制度的欠陥であった。
そして、この紛争構造において最も質が悪いのは――騒ぎの火元である当のモンターニャ伯が、公国軍の動員にほとんど兵を供出しないという点だった。
伯の言い分は一応、筋が通っている。
「自領はマルケン公国軍の脅威に晒されており、領内の防備に兵を割かねばならない。ゆえに、公爵家の招集へ回せる兵力はない」
というものだ。
実際、自領の城砦や街道に兵を配置している以上、形式の上では虚偽とも言い切れない。
だが――その騒ぎを引き起こした張本人は誰だ、という話である。
(……出征せよとの命が下りた以上、公国軍の将として背くことはできん)
私は顎髭を撫でながら、手元の動員状を見据えて思案を巡らせた。
大規模な激戦にはなり得ない、ある意味で展開の読める国境警備戦。命のやり取りがある実戦の場ではあるが、この一戦は武家の男子にとってこれ以上の実地訓練の場とも言えた。
「ゲオルグ。……どうだ、この出兵を機に、ライモンドとロメロに初陣させてみては」
私の問いかけに、ゲオルグは瞳をわずかに和らげ、深く頷いた。
「ええ、良きお考えかと存じます。二人ともすでに成人の儀を終え、武芸の練度も並の騎士を凌駕しております。本格的な大戦とならぬこの小競り合いこそ、武門の嫡子としての名声と初陣の箔をつけるには、まさに絶好の機会と言えましょう」
武芸に秀でた長男ライモンドは勿論のこと、魔法と剣の双方を修めた次男ロメロにも、武人としての確固たる実績を踏ませておきたい。二人の初陣としては文句のつけようがない好機に思えた。
――だが、その時だった。
「殿、待たれよ」
部屋の隅で腕を組み、黙って話を聞いていた老家令――叔父のバルドが、重々しい声で待ったをかけたのだ。
「叔父上……何か懸念でも?」
私が眉をひそめて振り返ると、バルドは刻まれた深い皺を寄せて私とゲオルグを見据えた。
「ロメロを連れて出払うのはまずい。……今、ロメロまでこの屋敷から引き抜いてしまえば、領内に残されたレオナルドにかかる圧力が強すぎる」
その老練な指摘を受けた瞬間、私とゲオルグはハッと息を呑み、思わず顔を見合わせた。
(……そうか、領内のあの不穏な空気か)
言われてみれば、まったく叔父の言う通りだった。
領内では今、急速な経済改革と自警団の台頭によって存在意義を脅かされた下級騎士たちが、レオナルドへの不満と敵意を日増しに募らせている。
その不穏な均衡を辛うじて保っている防波堤こそが、現場で騎士たちとなだめ役として対話を重ねられる思慮深いロメロの存在であり、またライモンドとロメロという「兄たち」が揃って重石となっている男爵家の結束力そのものなのだ。
もしここで、次男のロメロまで出征させてしまえば、内政の現場に残されるのは十二歳になったレオナルド一人になってしまう。いくら神童とはいえ、まだ幼さの残る子供の身で、鬱屈した不満を抱える大人の武人集団からの剥き出しの敵意を真っ向から受け止め切れるはずもない。最悪の場合、主家の留守を突いて騎士たちがレオナルドの改革を力づくで頓挫させようと暴走する危険すらあった。
「……確かに、叔父上の仰る通りだ。私の思慮が足りなかった」
「私も視野が狭まっておりましたな。内憂を置き去りにして外征に戦力を割くのは下策でございます」
ゲオルグも私も、自らの浅慮を恥じるように苦笑いを浮かべるしかなかった。
武門の面目も大切だが、足元のグレリオ家の屋台骨を揺るがしては元も子もないのだ。
「方針を変えよう。今回の出征、初陣は長男のライモンド一人とする。ロメロには領内に残ってもらい、レオナルドと共に留守を守らせる」
私の決定に、ゲオルグとバルドが揃って力強く頷いた。
かくして、我が男爵家の次代を担う長男ライモンドの初陣と、国境への出兵が静かに定まったのだった。




