門出Ⅲ
騒がしく華やかだった婚約パーティーが終わった、次の日の朝。
春の陽気を携えた空気が漂うマナーハウスの前には、一台の瀟洒な馬車が停まっていた。
その周囲を護衛するように四騎の騎兵が馬首を並べ、屋敷を背に今まさに旅立とうとしている。
父上に付き添われ、その馬車へ乗り込もうとしていたのは――僕の、たった一人の実姉であるマティルダだった。
父上もまた、男爵家当主として娘を先方へ送り届けるため、ゲオルグ伯父様とともにレムノ辺境伯領まで同行することになっている。
見送りに並んだ兄弟たちが、それぞれに姉の新たな門出を祝う言葉を贈る。
ライモンド兄様、ロメロ兄様、そしてレティーシャ様。姉さんは、その一人一人の言葉を胸に深く刻み込むように、温かく両手を取り合いながら、優しく言葉を返していた。
やがて、末の弟であるレオナルド様が姉さんの前に進み出た。
礼儀正しい別れの挨拶を述べる十歳の弟に対し、姉さんはふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべ、その小さな手を包み込んで静かに問いかけた。
「レオナルド様、お母様のお言葉を覚えておいでですか?」
その問いに、弟がわずかに目を見張る。姉さんはそのまま、澄んだ鈴の音のような声で紡いだ。
「――ただ生きて、幸せになってください」
姉さんは一度だけ微笑んだ。
「あなたが誰かを幸せにすることばかり考えて、ご自分の幸せを忘れてはいけませんよ」
亡きカタリナ母様が遺した、あの言葉。
そして、それに重ねた姉さん自身の言葉。
常に貼り付けたような完璧な作り笑いを崩さず、どこか浮世離れした風変わりな弟が、その時ばかりは取り繕うことすら忘れ、ぽかんと姉さんを見つめていた。
あの万能の神童の仮面が、ほんの一瞬だけ剥がれ落ちていた。
そして――最後に、姉さんの視線が僕へと向けられた。
僕は、驚くほど冷静だった。
胸を引き裂かれそうな痛みも、喉元まで競り上がってくる「行かないでくれ」という哀願も、すべて氷の底へと沈めていた。
取り乱すこともなく、心も決して乱されない。
常に冷静であり、言葉を選び、グレリオの家のために尽くす。
亡き母の血を引き、叔父であるゲオルグ様から幾度となく叩き込まれてきた庶子としての掟が、今の僕の全身を冷徹に律していた。
僕は一歩前に出ると、姿勢を正し、姉さんへ向けて深々と完璧な礼を取った。
感情の揺らぎなど微塵も滲ませぬ、澄み切った声で言葉を紡ぐ。
そう、あの日、姉さんが婚姻を受けたその時のような一切の淀みがない姿勢で。
「――ありがとうございました」
ただ、それだけを述べた。
姉として僕を育て、愛してくれたことへの感謝。そして、男爵家のために誇り高く見知らぬ他領へ嫁いでいく、一人のグレリオの娘への最大限の敬意を込めて。
その瞬間、毅然としていた姉さんの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
昨日からずっと完璧な淑女として微笑みを崩さなかった姉が、僕のあまりに儀礼的で完璧な挨拶を前にして、耐えきれずに涙を溢れさせたのだ。
周囲の騎士や従士たちが、その突然の涙に少し困惑したようにざわめく。
だが、姉さんは手で涙を拭うと、気丈にも凛とした表情でくるりと振り返り、一度も足を止めることなく馬車の中へと乗り込んだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた位置にいた叔父ゲオルグ様が、僕を見て満足そうに静かに頷いていた。
その表情はいつも通り厳しかったが、どこか寂しげにも見えた。
伯父もまた、この婚姻に伴う男爵家の使節団を取り仕切る役目として、父上とともに祝いの品を山積みにした荷馬車と共にレムノ辺境領へと同行することになっている。
御者の鋭い鞭の音が朝の静寂を破り、車輪が軋む音を立てて馬車がゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく馬車の背中と、濛々と立ち上る砂埃を、私は瞬きもせずに見つめ続けていた。
胸の奥に灯っていた温かな火が、一つ消えていくような感覚。
(……さようなら、僕の姉さん)
溢れそうになる何かを強く呑み込みながら、僕は、姉さんと共に笑い合ってきた今日までの幼き日々を、誰の手も届かない心の最も深い場所へと静かにしまい込んだ。
-----人物紹介-----
マティルダ・グレリオ
グレリオ男爵アントニウスの庶子
十六歳。
マルチェロの実姉
実母はマルチェロを出産して間もなく他界し、その後は弟とともに男爵夫人カタリナに引き取られ、正嫡の兄妹たちと分け隔てなく育てられた
穏やかで思いやりが深く、家族への愛情が強い
特に唯一の実弟であるマルチェロを深く慈しんでいる
庶子としての自らの立場を幼い頃から理解しており、自らの感情よりも家族や男爵家の立場を優先することを当然のように受け入れてきた
その慎ましい振る舞いの内には、強い芯を秘めている
新年を迎えて成人し、レムノ辺境伯家の分家筋との婚姻が決定
長年暮らしたグレリオ家を離れ、新たな家へ嫁ぐこととなった




