門出Ⅱ
庭園のガゼボの脇、少し喧騒から外れた場所に立ち、私は果実水のグラスを手にパーティーの様子を観察していた。
主役であるライモンド兄上とアンソニー嬢は、互いにまだ慣れていないせいもあって、立ち振る舞いの一つ一つが実に初々しくぎこちない。
赤面して視線を泳がせる兄上と、淑女の仮面を被りつつも時折耳まで赤くしているアンソニー嬢。だが、その不器用な距離感こそが実にこの二人らしくもあり、眺めている私としてはなんとも微笑ましく感じていた。
視線を少し移すと、我が家の当主である父上と、シエル伯リオン卿がグラスを傾けながら談笑している。
風に乗って断片的に漏れ聞こえてくる声から察するに、伯爵が振っている話題の主軸は、我が領内の急激な経済発展や農業改革のようだ。
(なるほど……。辺境の貧乏男爵家と高を括っていたら、予想以上の金を生み出していると気づいて、ある程度は情報を掴んで探りを入れてきているわけだ)
食えないタヌキ親父だが、父上もそこは百戦錬磨の将軍、のらりくらりと核心を外していなしている。
一方で、会場に参列している我が家の騎士たちが私に向ける視線は、春のうららかな陽気とは正反対に、凍てつくように厳しい。
(やれやれ……これはどうも、予想以上に嫌われているようだ)
露骨に眉をひそめる者、忌々しそうに舌打ちを漏らす者。
私は努めて愛くるしい子供の笑顔を崩さず、態度が行き過ぎて無礼すれすれな相手に対しても、非の打ち所のない完璧な礼節をもって深々と頭を下げて対応した。
だが、十歳の子供に完璧な社交マナーで大人の余裕を見せつけられることが、かえって彼らの歪んだプライドを逆なでするらしい。青筋を立てて引きつる騎士の顔を見ていると、前世からの悪癖というか、いたずら心で思わずさらに慇懃無礼に追い詰めてやりたくなってしまうが――これ以上の火種を撒くのも面倒だ、ここは自重しておこう。
ふと見れば、マティルダ姉様が静かに佇んでいた。
姉様はこの宴が終われば、そのままレムノ辺境伯領へと旅立たれることになっている。
相手は辺境伯の分家筋――つまり、姉様と同じく嫡流ではない出自の相手ということだ。レムノ辺境伯といえば、父上と同様にノルテン公爵家の軍権を支える名将の一人であり、極めて厳格で規律に厳しい人物だと聞いている。見知らぬ遠い他領での生活、それも厳格な武門の家での暮らしは決して楽なものではないだろう。
姉様のこれからの道に幸多からんことを、ただただ願うばかりだった。
そんなマティルダ姉様と何事か言葉を交わした後、レティーシャ姉様はすぐさま若い貴族の子弟たちに囲まれていた。
「レティーシャ様、どうか私と一曲!」
「いえ、私こそが!」
碧い瞳を輝かせ、令嬢としての完璧な笑みを振りまく姉様は、相変わらず凄まじい人気ぶりだ。
すると、その輪の近くで上機嫌に酒を煽っていた中年の貴族が、赤ら顔で父上に向かって大声を張り上げた。
「がはは! 男爵殿、どうだね!我が家の息子とレティーシャ嬢の婚約というのは!これほどお似合いの組み合わせもそうはおるまい!」
酒の席での戯言と冗談を交えた、半ば強引な売り込み。
だが、その父親の横に立つ息子の方を見れば、満更でもないどころか、レティーシャ姉様を完全に狙うような熱っぽい視線を注いでいる。
周囲の貴族たちも調子を合わせて囃し立て始め、外堀を埋めるような嫌な空気が漂い始めていた。
(……おいおい、これは……まずいかな)
姉様のあの性格だ。表面上は笑顔を作っていても、内面ではすでに沸点に達しているかもしれない。それに、今のレティーシャ姉様はなんだか少し苛立っている。
私は手元のグラスを給仕のトレイに置くと、トラブルを未然に握り潰すべく、静かに歩調を整えてその輪へと足を進めた。
私が割って入ろうと足を速めたが、時すでに遅かった。
鼻の下をだらしなく伸ばした貴族子息に対し、レティーシャ姉様は淑女の微笑みを浮かべながら、実にとんでもない言葉を言い放ったのだ。
「まあ、これは願ってもないお申し出ですこと。……けれど私、グレリオの男たちのように、強く、そして弱き者を守れる殿方でなければ嫁ぐ気にはなれませんの。もしそちらの殿方にそれだけの気概がおありでしたら――私と一手、お立ち合いになっていただけませんか?」
その可憐な容姿から放たれた提案は、優雅なダンスでも茶会でもなかった。 あろうことか、「剣を取れ」という過激極まりない決闘の申し入れである。
(……おいおいおい、待て待て待て!)
これは私一人ではとても収拾がつかん。
緊急事態を察して周囲を見渡したが、我が家の頼れるはずの男どもはことごとく機能不全に陥っていた。
主役のライモンド兄上はアンソニー嬢の隣でいまだに耳まで真っ赤にして照れており、使い物にならない。
ロメロ兄上はといえば、遠くを見つめて心ここにあらず。
父上はシエル伯との腹の探り合いから抜け出せず、マルチェロ兄はマティルダ姉様との別れが近づいていることで頭がいっぱいなのだ。
「……はぁー」
思わず胸の底から重いため息が漏れた。
(私は止めようとしたのですよ……)
心の中でそっと家族に言い訳と謝罪を述べる。もう十歳の私の手には負えない。
相手の貴族子息は、レティーシャ姉様を着飾ったただの気位の高いか弱い令嬢とでも侮ったのだろう。調子に乗った父親や周囲の貴族たちに囃し立てられ、庭園の隅に置かれていた訓練用の木剣を軽薄に拾い上げると、冗談交じりに構えてみせた。
片手で木剣を持ち、盾も構えない。その姿は、私の目には前世のフェンシングでも真似たような軽い構えに見えた。
姉様を明らかに侮り、片手で気楽に木剣を弄ぶ姿を見た瞬間、私は内心で子息の冥福を祈った。
姉様はドレスの裾を少し引き上げ、正面にすらりと木剣を立てて構えた。
相手の子息もそれに応じるように剣先を向ける。それが、互いの試合開始の合意の合図だった。
――次の瞬間だった。
目にも留まらぬ、信じられない速度で姉様の木剣が空を裂いた。
カンッ! と鋭い打撃音が響いたかと思うと、瞬く間に子息の手元から武器が絡め取られ、木剣があっけなく宙を舞う。
放り出された木剣が地面に落ちるより早く、子息は足を鋭く払われて無様に芝生へ転倒し、気づいた時には自らの喉元寸前にピタリと冷たい切っ先を突きつけられていた。
男は尻餅をついたまま、自分が一体何をされたのか、何が起きたのかすら全く理解できないという間の抜けた顔で姉様を見上げていた。
会場全体が、水を打ったように静まり返る。
そんな中、レティーシャ姉様は無造作に木剣を放り捨てた。
そして、あの愛らしく華やかな容姿のどこからそんな冷気が湧き出るのかと思うほど、絶対零度の冷ややかな視線を這いつくばる子息へと投げかけ、そのまま踵を返して背を向けたのだ。
ふと視線を感じて振り返ると、遠くから父上が「……なぜ止めなかった、レオナルド」と無言の眼圧で激しく訴えかけてきていた。
私は肩を竦め、両手を広げて「どうしようもなかったのです」とジェスチャーで返すと、不機嫌の嵐を撒き散らしながら歩き去る姉様の後を小走りで追いかけた。




