門出Ⅰ
新しい年が明け、冷たい雨と風の季節が過ぎると、男爵領にも待ちわびた柔らかな春が訪れた。
マナーハウスの裏手に広がる庭園には、色とりどりの春の花が咲き乱れ、穏やかな陽光が降り注いでいる。
いま、この庭園ではライモンド兄様とアンソニー・ベルトレ様の正式な婚約を祝う――婚約パーティーが盛大に催されていた。
今回の宴には、他ならぬシエル伯領主のリオン・ベルトレ伯爵も自ら足を運ばれていた。
ノルテン公国において、格上である大貴族が直々に列席する宴など、私が十六年の生涯で目にしてきた男爵家の社交会の中で、間違いなく最も大きく、華やかなものであった。
グラスを交わす着飾った貴族たちや騎士たちの熱気の中、私はそっと我が愛する家族へと視線を巡らせる。
主役であるライモンド兄様は、豪奢な礼装に身を包みながらも、隣に立つアンソニー嬢の可憐な姿に終始照れを隠せない様子で、耳朶まで赤く染めながらぎこちなく客人の祝辞に応えていた。武骨な兄様らしいその純朴さに、見ているこちらまで頬が緩んでしまう。
その少し引いた場所では、ロメロ兄様が静かに佇んでいた。
グラスを傾けながら兄の門出を祝うその瞳の奥には、時折、誰にも悟られぬよう深い切なさが過っている。密かに心に秘めたあの羊の角を持つ少女への想いと、自らに突きつけられた婚姻の現実の狭間で揺れているのだろう。
ふと、私の視線に気づいたマルチェロと目が合った。
弟は健気にも笑顔を作ってみせたが、私と目が合った瞬間、耐えきれないように悲しげに視線を伏せてしまった。
無理もない。この華やかな宴が終われば、私は明日にでも遠いレムノ辺境伯の領地へと嫁ぐため、旅立つことになっているのだから。
私のたった一人の、愛しい実弟。
そして、少し離れた卓で貴族たちと社交を繰り広げている十歳の末弟――レオナルド様。
あの方は、いつも以上に愛くるしくにこやかな笑みを浮かべ、大人たちを完璧にいなしている。けれど、私には分かっていた。あの非の打ち所のない作り物の笑顔の下で、あの方はきっと何かろくでもないことを考えているに違いなかった。
赤子の頃から泣きもせず、幼い時分からずっと、そういうお方だった。
グラスを傾ける音と優雅な弦楽の調べを聞きながら、私の心は自然と、幼い日々の記憶へと遡っていく。
マルチェロが生まれて間もなく、私たちの実の母はこの世を去った。
側室の子、庶子という日陰の身の私たち姉弟を、亡き母の兄であるゲオルグ伯父様はとても気にかけてくださり、貴族としての矜持や振る舞いを惜しみなく教えてくださった。
そして、正妻であるカタリナお母様。
カタリナお母様は、私たちにとっての「二人目の母」だった。
側室の子である私たちを疎むどころか、ご自身が産んだライモンド兄様やロメロ兄様、レティーシャ様と何一つ分け隔てることなく、溢れんばかりの深い愛で抱きしめ、育ててくださったのだ。
けれど――その最愛の二人目の母も、私たちは病で失ってしまった。
母様を失ったあの日の、胸をえぐられるような喪失感は、今でも忘れることができない。
それでも、私はこのグレリオ家が心から大好きだった。
側室の子、庶子――そんな世間の貼るレッテルなど、私にはどうでもよかった。
父上も、兄様たちも、妹も弟も、皆が優しく、お互いを思いやる強い絆で結ばれている。そんな温かな一家の一員であれたことが、私の人生のかけがえのない誇りだった。
「――お姉様」
物思いに沈んでいた私の元へ、凛とした足音とともに歩み寄ってくる人影があった。
私の愛しい妹、レティーシャ様だ。
その美しい顔立ちは淑女の微笑みを湛え、口からは淀みなく祝いの言葉を紡いでいる。
けれど、私には痛いほど分かっていた。
レティーシャ様の澄んだ碧い瞳の奥で、激しい怒りの炎が燃え盛っていることを。
それはきっと、同じ貴族の娘として生きる彼女だからこそ、誰よりも強く感じている理不尽だった。
家の都合だけで、顔も知らぬ他領の男のもとへ嫁いでいかなければならない。
――なぜ、お姉様がそんな目に遭わなければならないのか。
きっと彼女は、そう思っているのだろう。
なぜ、家の都合だけで貴族の女性は、遠くへ追いやられなければならないのか――そんな激しい葛藤と怒りが、彼女の心を激しく揺さぶっているのだろう。
(ああ……本当に、カタリナお母様にそっくりね)
激しい情熱と優しさを併せ持ち、理不尽に立ち向かおうとするその姿は、まるでカタリナお母様の面影が、そのまま目の前に立っているかのようだった。
「レティーシャ様……」
私が優しく名を呼んだ瞬間、彼女は周囲の死角を突くようにして、私の胸元へと強くすがりついてきた。
決して声を上げて泣いたりはしない。
けれど、私のドレスの胸元をぎゅっと握りしめたその小さな身体は微かに震え、誰にも悟られぬよう、大粒の涙を私の胸へと零し続けていた。
私は何も言わず、ただ優しく、妹の背中に手を添えて温もりを分け与えた。
やがて、わずかに呼吸を整えたレティーシャ様は、そっと私の胸から身体を離した。
濡れた睫毛を瞬かせ、完璧な令嬢の表情を取り戻した彼女は、私を真っ直ぐに見つめ、澄んだ声で告げた。
「――お姉様。どうか、絶対に、お幸せになってくださいね」
その強い言霊を私に遺すと、愛らしい妹は一度だけ美しく微笑み、踵を返して、自分を待つ貴族たちの華やかな輪の中へと毅然とした足取りで戻っていった。
遠ざかる妹の背中を見つめながら、私は胸の前でそっと両手を重ね、自らに言い聞かせるように微笑んだ。
大丈夫。この家族の愛がある限り、私はどんな遠い見知らぬ地へ行こうとも、決して挫けはしない、と。




