我が儘Ⅳ
翌日の男爵執務室。
年末を数日後に控えた部屋は、間近に迫る新年の祝賀行事や領内の決算処理のため、騎士や従士たちの出入りがひっきりなしに続いていた。
人の行き交いがふっと途絶えた、わずかな休憩の合間を見計らい、私は意を決して父の執務机の前へと滑り込んだ。
父は顔を上げると、特に驚いた様子も見せず、机上に山積みになった羊皮紙を指し示して幾つかの雑務を私に投げかけてきた。私は黙ってそれに従い、求められた順に公文書や決裁資料を整え、父の手元へと差し出していく。
室内には、羽ペンが紙を擦る乾いた音と、暖炉で爆ぜる薪の音だけが響いていた。
重苦しい沈黙の中、二人で淡々と作業をこなしていく。昨晩の食卓で突きつけられた、有力騎士家からの婚姻の打診。その重圧が私の胸の奥に鉛のように沈んでいた。
ひと通りの雑務が一段落し、いよいよ昨晩の件について胸の内を明かそうと、私が息を吸い込んだ――その瞬間だった。
「……妾では、駄目なのか?」
周囲には決して届かないであろう、掠れるような小声だった。
あまりの言葉に、私は息を呑んで硬直した。
父の視線は手元の書類に落ちたままだ。だが、その一言だけで、父が私のすべてを見透かしていたことを悟らされた。
執政官見習いとして赴任した村で出会った、あの羊の角を持つファウン族の少女フェリシア。私が人目を忍んで胸に秘め続けてきた、決して許されぬはずの恋情。父はそれらをとうに知っていて、私がこの場へ何をしに来たのかすら知っていたのだ。
父はペンを走らせながら、淡々と、だが声音を落として続けた。
「私とて、手放しで良いことと思っておるわけではない。だが、貴族が正妻の他に妾を持つなど、この世では珍しくもない話だ。……そなたがどうしても、その思い人と添い遂げたいと願うのであれば、そのような落としどころもある、ということだ」
実直を絵に描いたような父の口から出たとは信じがたい、あまりにも泥臭く、世俗的な現実策だった。
人族の社会で忌避される魔族を正妻や側室として迎えることは、家を滅ぼしかねない禁忌だ。だが、非公式の存在である妾としてならば、世間の目を誤魔化し、守ってやれぬこともない――父なりの、不器用で必死な妥協点だったのだろう。
その人間味あふれる解決案に、張り詰めていた私の心の糸がふっと緩み、思わず自嘲の笑みが漏れそうになった。
だが、私はすぐに襟を正した。
「……申し訳ございません、父上」
深く頭を下げ、震えそうになる声を必死に抑えて言葉を絞り出す。
「今はまだ、私の中で気持ちの整理がつきません。……大変に不遜で、身勝手極まりない願いであるとは重々承知しております。ですが、どうか……兄上の婚儀が無事に終わるまでは、私の縁談を待っていただけないでしょうか」
次男としての責務も、騎士たちとの政治的な力関係も理解している。父の提案がいかに寛大な配慮であるかも痛いほど分かっていた。
それでも、誰かを形だけの正妻として迎え、心に別の女を抱えたまま生きる己の未来を、どうしても今は受け入れることができなかった。兄の婚約期間である「四年」という猶予に縋りついた、情けない私の我が儘だった。
私の不出来な返答を聞き、父は深く、重いため息を一つ吐き出した。
叱責を覚悟し、私は身を縮める。
しかし、次に返ってきた父の言葉は、予想もしないものだった。
「……うちの子らは、誰も彼も我が儘を言わんからな」
ぽつりと漏らされたその声に、私は弾かれたように顔を上げた。
父は困ったように眉根を寄せていたが、その口元には、驚くべきことに柔らかな笑みがこぼれていたのだ。
「お前が我が儘を言うようになったと思うと……父としては、少し嬉しいぞ」
家を背負い、冷徹な判断を下し続けてきた厳格な当主の顔ではなく、そこにあったのは、ただ一人の不器用な息子の成長を温かく見つめる「父親」の顔だった。
胸の奥に、熱いものが込み上げて視界が滲みそうになる。
私は唇をぎゅっと噛み締め、溢れそうになる感情を押し殺しながら、父に向かって深々と、誰よりも深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、父上」
それ以上、言葉は交わさなかった。
私は静かに父の隣へと戻り、机の上に広がる書類の山を、黙々と、誠心誠意を込めて手伝い続けた。
-----人物紹介-----
マルチェロ・グレリオ
グレリオ男爵アントニウスの庶子
十三歳
マティルダの実弟で、レティーシャとは同い年
母はマルチェロを出産して間もなく他界し、姉とともに男爵夫人カタリナに引き取られ、実子と分け隔てなく育てられた
幼い頃から伯父ゲオルグの薫陶を受け、感情を表に出さず、家のために己を律することを教え込まれている
正嫡の兄姉には常に一歩引いた敬意を払い、実姉マティルダをかけがえのない家族として深く慕っている




