我が儘Ⅲ
ライモンド兄様の婚約の内定。
そして、有力な騎士家から相次いだロメロ兄様への婚姻の打診。
食卓で繰り広げられる大人たちのやり取りを、僕は息を潜めて見つめていた。
正統な嫡流である兄様たちでさえ、家が取り決める婚姻に口を挟む余地など微塵もないのだ。
ましてや、側室の子――庶子である僕たち姉弟にとっては、逆らうことなど最初から許されていない絶対の掟だった。
激しく狼狽するロメロ兄様に、「よく考えておくように」と父上が話題を打ち切った。
食卓がわずかな静寂に包まれる。
皆が次の言葉を待つ中、僕は、次に父の口から何が告げられるのかをとうに知っていた。
父上が視線を末席へと滑らせ、静かに口を開く。
「――マティルダ。そなたの婚約も決まったぞ」
その言葉が落ちた瞬間、僕の胸の奥がきりきりと締め付けられ、息が止まりそうになった。
今日の午後、父上から直々に姉へ届いた婚約の報せ。僕はその場に同席し、すでに聞かされていたのだ。
姉のマティルダは現在十五歳。あと数日で訪れる新年を迎えれば、成人となる十六歳になる。
そして春を待って――姉は、このグレリオの屋敷を出て嫁いでいく。
(行かないでくれ、姉さん……)
喉元まで競り上がってくる悲痛な叫びを、僕はテーブルの下で両拳を強く握りしめ、必死に押し殺した。
そんな僕の脳裏に、伯父であるゲオルグ様の厳しい声が蘇る。
『常に冷静でありなさい。感情に流されず、言葉を選びなさい』
『男爵家の子として、グレリオの名に誇りを持ち、常に家のために身を捧げなさい』
亡き母の兄であり、この男爵家の法務と外交を取り仕切る実力者。幼い頃から母に代わって僕たちを厳しく導いてくれた伯父の教えが、鎖となって僕の心を縛りつける。
父上が、婚約の相手を告げた。
「相手は、レムノ辺境伯の分家筋だ。先方からも歓迎の意が届いている」
レムノ辺境伯といえば、公国内でも屈指の武門と権勢を誇る大貴族だ。その分家筋とはいえ、辺境男爵家の、それも「庶子」に過ぎない娘の嫁ぎ先としては、破格を通り越して申し分なさすぎるほどの良縁だった。父上の、父としての最大限の配慮が込められていることも頭では理解できる。
だが――同じノルテン公国内とはいえ、レムノ領はここから離れた他領だ。
一度嫁いでしまえば、男爵家の庶子である僕が気軽に会いに行けるわけもない。
下手をすれば――今生の別れとなる。
たった一人の、かけがえのない半身のような姉が、僕の届かない遠い世界へと連れ去られてしまう。
胸が張り裂けそうな痛みに耐えかね、僕がうつむきかけた、その時だった。
「父上様、ありがとうございます。……謹んで、お受けいたします」
鈴を転がすような、凛とした澄んだ声が食堂に響いた。
姉は、わずかも臆することがなかった。
声に澱みもなく、一瞬の詰まりすら見せなかった。
姿勢を正し、完璧な淑女の礼を執りながら、会ったこともない他領の男へ嫁ぐ決断を口にしたのだ。
まるで、貴族家に生まれた子の鑑であるかのように、非の打ち所のない完璧な所作で。
その毅然とした横顔を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
悲しみや未練を微塵も表に出さず、ただ男爵家の名誉と自らの務めを全うしようとする姉の覚悟が、痛いほど僕の胸を刺し貫いた。
「おお、レムノ辺境伯の分家とは素晴らしいではないか」
「よかったわね、マティルダ!」
「おめでとう、マティルダ姉様」
食卓に、家族からの惜しみない賛辞と祝福の声が満ちていく。
ライモンド兄様も、ロメロ兄様も、レティーシャ様も、レオナルド様も、皆が温かい笑顔で姉の門出を祝っていた。
その明るい歓声の渦の中で、僕一人だけが、まるで冷たい水底に取り残されたように立ち尽くしていた。
僕も何か言わなければならない。
弟として、グレリオ家の男子として、笑顔で祝福を述べなければならないのだ。
だが、引きつりそうになる口元を必死に動かした僕が、一体どんな顔をして、どんな祝いの言葉を姉に返したのか――。
溢れそうになる涙を堪えるのに必死だった僕は、その時の自分の言葉を、どうしても思い出すことができなかった。




