我が儘Ⅰ
年の瀬が迫り、窓の外では冬の冷たい風が城砦の石壁を叩いていた。
暖炉に赤々と燃える薪の熱も、どこか私の胸の奥までは届かない。
男爵邸の食堂で、家族揃っての夕食も終盤に差し掛かった頃だった。
給仕たちが肉料理の皿を下げ、温かい香草茶を配り終えたタイミングを見計らい、上座に座る父アントニウスが静かに口を開いた。
「皆、少し手を止めて聞いてくれ」
父の改まった声音に、食卓の視線が父へと集中する。父は手元の羊皮紙を軽く整えると、安堵と厳しさが入り混じった表情で切り出した。
「シエル伯爵家との縁談の件だ。先方とも水面下で折衝を重ね、ほぼ内定していたのだが……正式に決着がついた。春を待って、ライモンドとアンソニー嬢の婚約を成立させることとする」
その宣言が食堂に響き渡った瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「おめでとうございます、兄上。無事にまとまって何よりです」
ロメロが穏やかな笑みを浮かべて杯を掲げ、レティーシャも碧い瞳を輝かせながら身を乗り出した。
「おめでとう、ライモンド兄! あんなに可愛いお嬢様が義妹になるなんて、私、春が待ち遠しいわ」
「おめでとうございます、ライモンド兄様」
「兄上、おめでとうございます」
マティルダとマルチェロも控えめな笑みを浮かべ、末弟のレオナルドも小さく頭を下げた。
当初はシエル伯家のきな臭いお家騒動から警戒されていた縁談だったが、いざ正式に決定したとなれば、家族は皆、前向きに受け止めようとしてくれている。皆の温かい笑顔が、眩しいほどにありがたかった。
だが――。
祝福の言葉を浴びながら、私の心にはどうしても拭い去れない重い棘が引っかかっていた。
(……本当に、これで良いのだろうか)
もちろん、辺境の男爵家に過ぎない我が家にとって、格上である伯爵家からの縁談が破格の名誉であることに何の疑問もない。アンソニー嬢のような可憐な令嬢を妻に迎えられること自体、武骨な私にはもったいないほどの幸運だ。
しかし、自分なりにシエル伯爵家との繋がりがグレリオ家に与える影響を深く考えると、拭いきれない不穏な予感が胸を締め付けるのだ。
その不安の根源の一端は、いま現在、我が男爵領で急速に表面化しつつある「騎士階級」と「レオナルドの改革」との対立構造にあった。
長男である私の耳にも、連日のように騎士たちからの不満や陳情が押し寄せていた。
『このままでは我ら騎士の立場がなくなる』
『平民や獣人ばかりが肥え太り、主家に命を捧げてきた我らが蔑ろにされている』
彼らの言い分も、同じ武人として分からないではない。先祖伝来の誇りと痩せた荘園を守り、剣一本で生きてきた彼らにとって、足元の世界が塗り替えられていく恐怖は耐え難いものだろう。
だが――だからといって、弟であるレオの改革を否定することなど、私には到底できなかった。
レオが成し遂げている数々の治績は、驚愕という言葉すら生ぬるい。
農地を休ませずに収量を跳ね上げ、治水を施し、新たな産業を興して領内を潤す。歴代のグレリオ家の当主はおろか、公国中を探したところで、これほど短期間に目に見える成果を挙げた者がどれほどいただろうか。
それが、若干十歳の実の弟によって成し遂げられつつあるのだ。
だが、あまりにもその歩みが早すぎる。合理的で完璧すぎるがゆえに、旧来の秩序に生きる騎士たちがその性急な変化についていけていないのだ。
そして何より恐ろしいのは、騎士たちの私への訴えに、日に日に「レオへの剥き出しの刃」が籠もり始めていることだった。
『次代の当主であるライモンド様を追い落とすつもりなのでは?』
『あの得体の知れぬ三男の暴走を止められるのは、あなた様だけだ』
彼らは、私を担ぎ上げ、レオを排除するための旗印にしようとしている。
そんな不穏な火種が足元で燻っている今、私がシエル伯爵家という巨大な後ろ盾を手に入れたら、家中はどうなる?
伯爵家の権威を背負った私を神輿にして、騎士たちがレオの改革を完全に押し潰そうと暴走を始めるのではないか。
あるいは、シエル伯家の厄介なお家騒動に巻き込まれ、男爵家そのものが引き裂かれてしまうのではないか。
笑顔で歓談する家族の輪の中で、私はグラスを握りしめたまま、ただ一人、冷たい汗を背中に流していた。
(私は……自らの婚約を、このまま手放しで喜んでいていいのだろうか)
家族の絆を、そしてこのグレリオ家の未来を守るために、己が果たすべき真の選択は何なのか。
喉元まで出かかった決意の言葉を呑み込みながら、私の視線は、無邪気に果実水を飲む十歳の弟の姿に釘付けになっていた。




