亀裂Ⅲ
トントン、と遠慮がちなノックの音が執務室の静寂を破った。
顔を上げると、扉を開けて入ってきたのは妻のフローラだった。その胸元には、この夏に無事産声を上げたばかりの次男が、柔らかな布に包まれて穏やかな寝息を立てている。一人目の長男に続き、二人目も元気な男の子だった。
かつてウェルマ村で先の見えない日々に喘いでいた頃を思えば、今の私の境遇は夢幻のようだった。あの類まれなる神童――レオナルド様に教えを請い、その薫陶を受け、今や男爵家直轄の内政を支える実務官として重用されている。
身分こそ「従士」という平民上がりの枠組みを出ないものの、男爵家から直々に支払われる給金や手当は、そこらの並の下級騎士よりもよほど恵まれていた。
では、いまの私は心から満ち足りて幸せなのかと問われれば――実は、まったくそうではないのだ。
愛する妻がいる。すくすくと育つ二人の息子がいる。主家に確固たる才を認められ、やりがいのある仕事もある。
傍から見れば「これ以上、神に何を望むのか」と呆れられそうな境遇だろう。
だが、その恵まれた立場こそが、私を胃の痛むような板挟みの苦境へと追い詰めていた。
「あなた、お仕事中にごめんなさい」
フローラが赤子を起こさないよう声を潜め、困惑と気遣いが入り混じった表情で告げてきた。
「……騎士様方が数名、あなたにお話をしたいとお見えになっています」
(……ああ、またか)
思わず胸の中で重いため息が漏れそうになるのを、私は必死に噛み殺した。
眉根を寄せそうになる己を律し、妻にできるだけ穏やかな笑みを返す。
「分かった。失礼のないよう、すぐにお通ししてくれ」
フローラが小さく頷いて部屋を出ていく背中を見送りながら、私は机の上の羽ペンを置き、両手で顔を覆いたくなった。
そう、これなのだ。
私の平穏を脅かし、日夜胃を苛み続けている元凶は、まさに彼ら「騎士たち」の対処だった。
最近、男爵家に仕える下級騎士たちの間で、鬱屈とした不満が危険なほどに募っている。
直轄地が潤い、平民やアルヴァの難民たちが豊かになっていく一方で、男爵家の支援が届かぬ自らの貧しい荘園に取り残され、自警団の台頭によって領民からの尊敬すら失いかけている騎士たち。
そのやり場のない苛立ちと焦燥の捌け口として、レオナルド様の腹心であり、かつ身分としては自分たちより格下の「従士」に過ぎない私の元へ、騎士たちが連日のように押し寄せてくるのだ。
私を訪ねてくる騎士たちの用件は、大別して二つしかない。
中には改革の方法を教えてほしいと頭を下げる者もいる。そういう者には、私も可能な限り力を貸した。
だが、訪ねてくる者の多くは違う。
「レオナルド様は一体何を考えておられるのだ」「平民や獣人ばかりを優遇し、伝統ある騎士を蔑ろにするおつもりか」と、主家への直接の批判にはならないギリギリの線で、私に対してあからさまな不満と当て擦りをぶつけてくるのだ。
カツ、カツ、と重い革靴と拍車の音が廊下に響き、扉が開いた。
現れたのは、険しい表情を浮かべた三名の下級騎士たちだった。腰の佩刀がカチャリと冷たい金属音を立てる。
私は即座に立ち上がり、身分の上で格上にあたる騎士たちへ向けて、微塵の隙もない臣下の礼を取った。
「騎士様方、よくぞお越しくださいました。どうぞ、来客用の椅子にお掛けください」
深く頭を下げ、丁寧に席を勧めながら、私は背中に冷たい汗が滲むのを感じていた。
(……さて、この方々はどちらの用件だろうか)
助言を求める相談か、それとも刃を含んだ八つ当たりか。
どちらにせよ、一言の返答を誤れば、ただでさえ軋む主家と騎士たちの亀裂をさらに広げかねない。
私は愛想の良い笑みを張り付けながら、目の前に座る騎士たちの口元を、じっと息を潜めて見つめていた。




