亀裂Ⅱ
執務室の窓から見える中庭の木々は、冬の訪れを前にすっかり葉を落としていた。
バルド老の重いため息に、手元のペンを止めた。
領内は未曾有の豊作に沸き、財政の数字は右肩上がりを続けているというのに、内政を一手に束ねる老家令の顔色は日増しに優れなくなっている。
その理由は、外務と法務を司る私にも痛いほど分かっていた。
豊かになればなるほど、それに伴って生じる摩擦や軋轢、新たな問題が雪だるま式に肥大化しているのだ。
そして何より深刻なのは――それを現場で裁き、調停し、処理するための実務官吏が圧倒的に足りていないという冷酷な現実だった。
人手不足に悲鳴を上げているのは、バルド老の内政方だけでなく、法と秩序を預かる私の部署もまったく同じであった。
(……歪みが、最も脆い場所に集まり始めている)
問題の根源の一つは、我がグレリオ男爵家に仕える騎士たちの立ち位置にある。
家中に籍を置く騎士の多くは、小規模な土地を代々受け継ぐ下級騎士家たちだ。彼らは主家から支払われるわずかな給金と、先祖伝来の小さな荘園からの収益で糊口をしのぎ、武具を整えている。
当然ながら、彼らの領有する小さな荘園は男爵家の直轄地ではない。
つまり、レオナルド様が主導する直轄領への投資や、四圃式農法、灌漑水路といった一連の改革の恩恵を、直に受けることができないのだ。
聡い貴族であれば、レオナルド様のやり方を真似て己の荘園を富ませようと思い至るかもしれない。
だが、あの四圃式にせよ緻密な物流管理にせよ、理屈を知るだけなら難しくない。だが、休耕地へ回す作物の種子、増やすべき家畜、それを売り捌く市場、水路を掘る人手――どれか一つ欠けても、同じ成果は出ない。
そうなれば、どうなるか。
自分たち誇り高き騎士よりも、直轄地で肥え太っていく平民や、新産業で金を稼ぐ商人たちを羨み、妬むようになる。
『なぜ、汗水垂らして剣を振るう我らが困窮し、土をいじるだけの卑しい平民どもが贅沢な暮らしをしているのか』
その不満の矛先が、立場の弱い平民や新参者へと向かうのは、人の業として言わずもがなであった。
さらに騎士たちの神経を逆撫でしているのが、各村に設立された「自警団」の存在だ。
レオナルド様が組織し、合理的な集団訓練を施された自警団は、村の治安維持から野盗や魔物の撃退に至るまで、大半の諸問題を騎士の手を借りることなく自力で解決してしまっている。
結果として、民が騎士に向ける尊敬と畏怖の念は、日を追うごとに薄れつつあった。
平民たちが「高い税を払って騎士様に守ってもらわずとも、自警団で事足りる」と考え始めているのだ。
それがアルヴァから流れてきた獣人や亜人も加わった組織であれば、なおさら既存の騎士たちのプライドは許さない。
騎士たちの不満は、危険水域に達するほど確実に増大していた。
そしてその鬱屈は、必然的に家中における「政治的な亀裂」へと姿を変えつつある。
騎士たちの間に、既得権益を脅かす改革の旗手――レオナルド様へのあらぬ反感や疑念が渦巻くのと同時に、絶対的な人気と武名を誇る長男・ライモンド様を押し立てようとする動きが強まるのは、極めて自然な流れだった。
彼らの頭の中では、
『騎士の権益を侵し、得体の知れぬ平民や亜人を重用する三男レオナルド様』
対
『武門の伝統と歴史を守り、騎士の矜持を体現する嫡男ライモンド様』
という危険な対立構図が勝手に作り上げられているのだ。
(……唯一の救いは、当の兄弟仲が極めて良好であることだがな)
ライモンド様は弟の才を純粋に誇り、レオナルド様もまた兄の器を立てている。当事者二人に少しでも権力欲や確執があれば、すでにグレリオ家は真っ二つに割れて内乱に突入していてもおかしくはなかった。
私は深く息を吸い、手元に置かれた一枚の羊皮紙へ改めて目を走らせた。
レオナルド様から我々宛てに非公式に提出された、極秘の提案書。
表題には――『常備軍設立に関する所感』と記されていた。
内容は、男爵領軍の根幹を根底から覆す、恐るべき軍制再編案だった。
現在の男爵軍は、主家に軍役を負う騎士と、戦時に領民から徴募する民兵によって成り立っている。
その軍制を段階的に廃し、既存の騎士についても出自ではなく軍人としての能力を基準に新たな軍へ組み込み、貴族や平民、種族の垣根を撤廃した「専業の正規常備軍」へと再編する。
つまりこれは、騎士が土地と身分の代償として負ってきた「軍役」そのものを、いずれ不要とする構想でもあった。
さらに、軍の内部においては、能力・功績・指揮適性を基準として登用する――という、身分制社会そのものへの宣戦布告に近い思想が理路整然と綴られていた。
もちろん、明日明後日に導入せよという暴論ではない。数年、あるいは十年単位の時間をかけた将来的な構想として書かれてはいる。
だが――。
(今、こんなものが騎士たちの目に触れてみろ。暴動どころの話では済まんぞ……)
背筋に冷たい汗が伝うのを覚えた。
ただでさえ自警団の台頭に苛立ちを募らせている騎士たちからすれば、己の存在意義そのものを否定され、平民や獣人と同列に扱われる悪夢のような布告に他ならない。露見すれば、即座に刃を抜いて主家に詰め寄る者が現れてもおかしくはない。
(恐ろしいお方だ。合理的で、正しく、そして――あまりにも早すぎる)
あの方の描く図面は、常に数手先、いや数十年先の国家の姿を見据えている。
だが、生きている人間は過去の慣習と感情の生き物なのだ。
冷徹な法と外交を預かる私でさえ、思わず天を仰ぎたくなる。
「……レオナルド様。流石にいささか、やりすぎではございませんか」
暖炉の火に照らされた羊皮紙の文字を見つめながら、私は誰もいない執務室で、苦い呟きを漏らすしかなかった。




