縁談Ⅲ
馬車の車窓から見えた光景に、私は思わず小さく息を呑んでいた。
辺境の男爵領と聞いていたので、どれほど寂れた土地なのかと覚悟していたのだ。
だが、視界に飛び込んできた男爵領は、予想とはまるで違っていた。道を行き交う民には活気があり、広がる畑では豊作を予感させる作物が、収穫を待つように風に揺れている。
グレリオ男爵邸――手入れの行き届いた瀟洒なマナーハウス、そしてその傍らに威風堂々とそびえ立つ堅固な城砦は、とても男爵家の領主館とは思えないほど立派で、重厚な気品に満ちていた。
今日、私はマナーハウスの裏手にある美しい庭園で開かれる「顔見せ会」のために、この地を訪れていた。
私の婚姻の決定権を握る男――リオン叔父上。
あの男の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥底から冷たい嫌悪感が湧き上がってくる。
私の父や叔父様やおじい様まで殺めたと領内で囁かれている、現シエル伯領主。
本来ならば伯爵家の家督など継げるはずもなかった庶子でありながら、今や我が物顔でシエル領の頂点に君臨している。
父も、父の弟である優しい叔父様も、祖父が他界する半年前、まるで示し合わせたかのような「不慮の事故」によって相次いで命を落としてしまった。その不自然すぎる死の真相など、考えるまでもなかった。
貴族らしからぬ下品な振る舞いや乱暴な言動。何人もの愛人を屋敷に侍らせ、気に入らぬ部下を罵倒して悦に浸るあの男の姿を見るたび、同じ血が流れていることすら恥ずかしく、認めたくなかった。
だからこそ、辺境の格下男爵家への嫁入りを叔父から言い渡された時も、私はむしろ快く受け入れたのだ。
あの男が私を厄介払いしたがっていることくらい、痛いほど分かっていた。
それでも構わなかった。もうシエル領に何の未練もない。あの悍ましい叔父の支配から逃れられるのであれば、相手が男爵家どころか、いっそ貴族でなく平民の家であっても喜んで従っただろう。
――けれど、私は見てしまった。
庭園の木漏れ日の中、私を迎えるために立っていた、未来の旦那様のお姿を。
さらりと風になびく、品のある灰色の髪。
そして、どこまでも澄み切った、強い意志を宿す灰色の瞳。
一目見たその瞬間に、私の世界からすべての音が消え去った。
胸の奥が雷に打たれたように激しく脈打ち、熱い何かが全身を駆け巡る。
心を、奪われてしまったのだ。
貴族の娘であれば、誰もが密かに心躍らせるお伽噺のような恋。
けれど、そんな甘い幻想が現実の貴族社会にあり得ないことなど、とっくに弁えていた。
政略のために親が決めた相手と顔も知らぬまま結ばれる。それが貴族家に生まれた女性としての当たり前の務めであり、何の疑問も抱いていなかった。
だが、自由のない籠の鳥だからこそ、令嬢たちは社交界で飛び交うロマンスの噂に胸を焦がし、ありもしない幻想に色鮮やかな夢を重ねて憧れるのだ。
その、ただの夢物語だったはずの憧れが、いま奇跡のように私の目の前に立っていた。
ライモンド様。
私より五つ年上の、十六歳の方。
私が結婚できる十六歳になるまで、あと五年。
それまでは正式な婚姻ではなく、あくまで婚約者として過ごさなければならない。
五年という歳月は、少女にとって決して短くはないはずだった。
けれど――あの澄んだ瞳を持つライモンド様と一緒になれるのだと思えば、五年の我慢など、むしろ愛おしい時間にすら思えてしまう。
胸の鼓動が高鳴りすぎて、今にも他の者に聞かれてしまいそうだった。
頬が熱く染まり、顔が綻びそうになるのを、私は必死の思いで押し留める。
(落ち着いて、アンソニー……。絶対に、誰にも悟られては駄目よ)
叔父の息がかかった従者たちも、この場に目を光らせているかもしれない。
何より、最初の挨拶から好意を露わにして、はしたない娘だと思われてはたまらない。
心を落ち着かせるために私より少し年下の不思議な少年を見る。
何とも形容しがたいが直感というのだろうか、見た目は可愛くも凛々しくも見える容姿なのに、私にはあどけない少年の姿をした何か別のものに感じられた。
私に宿る精霊の加護が何かを感じ取ったのか、それとも単なる私の思い込みなのかは分からない。
少し心を落ち着かせた私は淑女らしく胸の前で手を重ね、深く息を吸い込んで、恋に落ちたばかりの熱い想いを冷たい仮面の奥へとそっと隠した。




