対面Ⅰ
春の終わり、初夏の微風が忍び寄る夜。
ノルテン公国の公都ノルデンを見下ろす巨城――ノルデン城は、天を衝くような無数の篝火と豪奢な明かりに包まれ、夜空を昼間のように照らし出していた。
城の中心に位置する大ホールには、かつてないほどの熱気と華やぎが満ち満ちていた。
高い吹き抜けの天井には神話の英雄譚を描いたフレスコ画が広がり、太い梁から吊るされた幾つもの鉄製燭台には、惜しげもなく蜜蝋の蝋燭が灯されている。
壁面を彩る深紅のタペストリーには、ノルテン公爵家の家紋たる「翼を広げた蒼龍」が金糸で細やかに刺繍され、磨き抜かれた白大理石の床には、着飾った貴族たちの豪奢な装飾品と裾を引く絹のドレスが色鮮やかな影を落としていた。
今夜催されているのは、この春に生を受けた公爵家の嫡男――ボナペントゥーラの誕生を祝う荘厳な祝宴であった。
ノルテン公国は、アルビオンの地に割拠する五公国の一角を占める雄邦である。
かつて統一王アーガレスの手によって全土が一つの王国としてまとめ上げられた時代があったが、偉大なる覇王の崩御とともにその王国は脆くも瓦解した。
その後、有力な大貴族たちがアルビオンを五つに分割して統治する「五公国体制」が成立し、今日に至っている。
外敵が侵寇した際には五公が団結してこれに対処するという相互防衛条約こそ結ばれているものの、それはあくまで外部の脅威に対する盟約に過ぎない。内向きには何らの抑止力も持たず、五公国の間では領境の画定や交易権、影響力を巡る暗闘が絶えることなく繰り返されていた。
その群雄割拠するアルビオンにあって、ノルテン公国は稀有な繁栄と平穏を享受している地であった。
先代公爵の手腕、そして若くして後を継いだ現当主ヴァイシス・ルガーノの巧みな領国経営により、領内は豊かに潤い、五公国の中でも際立って安定した治安と国力を誇っている。
それゆえに、この公国に待望の「直系の男子」が誕生したという報せは、公国内のみならずアルビオン全土のパワーバランスにとっても極めて重大な意味を持っていた。
大ホールには、公国内の諸侯や上級貴族はもちろんのこと、他公国からの使節や国内外の有力商人、さらには教会の高位神官たちまでもが列をなし、我先にと祝いの辞を述べようと集っていた。
楽団が奏でる優美な弦楽器の調べに、銀の杯が触れ合う澄んだ音。
贅を尽くした極上の葡萄酒の芳香と、香草をふんだんに使った仔羊や野鳥のローストが運ばれるたびに立ち上る湯気。
給仕たちが銀盆を掲げて軽やかに行き交い、貴族たちは笑顔の仮面を貼り付けながら、互いの腹を探り合い、次代の後継者を巡る力関係の推移を値踏みするように視線を交錯させていた。
煌びやかな社交の熱気の只中、大ホールの最奥――一段高く設えられた豪奢な玉座に、この夜の主役たる一族の主が静かに腰を下ろしていた。
◇
玉座の肘掛けに置いた指先で、私は無意識に口元をなでていた。
薄く生えそろえた口髭。武人としての厚みに欠ける細身の体躯と、どこか幼さの残る顔立ちを少しでも大領主らしく見せようと蓄え始めたものだが、鏡を見るたびに頼りなさを自覚させられるようで、いまだに馴染まない。
十七歳で急逝した父の跡を継ぎ、右も左も分からぬまま他国との政略で迎え入れた先妻は、まともな言葉を交わす間もなく病に伏せ、わずか二年でこの世を去った。公国の舵取りの重圧と、跡継ぎを巡る家中からの無言の圧力に押し潰されそうになりながら駆け抜けてきた八年間だった。
だからこそ、私を支え続けてくれた今の妻との間に、五歳の長女ベアトリーチェに続いて、この春ようやく待望の嫡男ボナペントゥーラが無事に産声をあげてくれた時は、肩の荷が下りる思いだった。
「公爵閣下、まことにおめでとうございます」
「若君の御代に至るまで、ルガーノ家と公国の繁栄は揺るぎありますまい」
ひっきりなしに続く祝辞に、私は貼り付けたような穏やかな笑みで応じ続ける。
まだ産後の床から離れられない妻は今夜の宴を欠席しているが、私の足元には、五歳になるベアトリーチェが立っていた。
城内にひしめく大人の多さと異様な熱気に圧倒され、時折不安そうに私の衣の端を握りしめながらも、公爵令嬢としての矜持を保とうと、父である私の会釈に倣って小さな頭を下げている。客人たちへ愛らしく挨拶を返すその健気な姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
やがて、延々と続いた謁見の列がようやく途切れた。
私はそっと身を屈め、娘の柔らかな耳元で囁いた。
「ベアトリーチェ、よく務めを果たしてくれたね。もう部屋に戻って休みなさい」
私の言葉を聞いた瞬間、それまで完璧に公爵令嬢の顔を保っていた娘の瞳に、あからさまな安堵の色が差した。思わず喉から「助かった」と息が漏れそうになるのを必死に堪えているのが実に可愛らしい。
それでも最後まで礼儀を崩さず、小さな手でドレスの裾をつまむと、幼いながらも愛らしい淑女の礼を取って、侍女に手を引かれながら会場を後にしていった。
娘の背中が見えなくなったのを見届け、私はふっと表情を公爵のものへと戻し、ざわめく大ホールへと鋭い視線を滑らせた。
(……さて)
群がり、酒を酌み交わす貴族たちの頭越しに、今夜、私が密かにその動向を気に留めていた人物を探す。
探すのにさして時間はかからなかった。
豪華な衣装に身を包んだ貴族たちの輪から遠く離れた壁際。
そこに、居心地が悪そうに佇む小柄な影があった。
辺境の地の男爵家の三男――年を越して十歳となったばかりの少年だ。
立派な体躯の父親や兄たちとは対照的に、まだ子供特有の線の細さを残した少年だった。社交界の華やかな熱気など我関せずといった風情で、手にした果実水のグラスに一度も口をつけぬまま、冷めた観察眼を広間に向けている。
少年は長居する気もないらしく、家族が他の諸侯との談笑に追われている隙を見計らうと、足音もなくすっとその場を離れた。
給仕の合間を縫うようにして彼が向かった先は、大ホールの喧騒から外れた、公都ノルデンの夜景が一望できる開放的なバルコニーだった。
(……これは好都合)
大勢の貴族が群がるホールの中で公爵である私がわざわざ辺境男爵家の三男に声をかければ、周囲の余計な詮索や嫉妬の種を撒くことになる。
だが、あのバルコニーであれば、誰の邪魔も入らない。
私は手にした葡萄酒の杯を給仕の銀盆へと静かに預けると、背後に控えていた護衛の騎士たちへ目配せし、バルコニーの入口で待つよう命じた。そして夜風がカーテンを揺らすバルコニーへ向け、一人、静かに歩みを進めた。




