怪物Ⅲ
昨夜の和やかな夕食の団欒がまるで幻であったかのように、翌朝の執務室は重苦しい緊迫感に包まれていた。
机の対面に直立する、我が男爵領の二大重臣。
財務を中心に領内の実務を取り仕切る家令の叔父バルドと、外交と法務を司る宰相ゲオルグ。
領地の屋台骨を支えるこの二人が揃って私の執務室を訪れ、揃って口にした驚くべき申し入れに、私はこめかみを押さえて深いため息を漏らした。
「……つまり二人は、我がグレリオ家の次期後継候補に、長男ライモンドではなく三男レオナルドを支持すると? そう言いたいのか」
低く落とした私の問いかけに、まず口を開いたのは宰相のゲオルグだった。
生真面目なその顔をわずかに強張らせながら、眼鏡の奥の光を宿して一歩前へ出る。
「前置きさせていただきますが、ライモンド様に何ら落ち度や不足があるわけではございません。武芸の才は領内外に鳴り響き、品格も誠実さも、次期当主として申し分のない器でございます」
「ならば、なぜだ」
「……ただ、レオナルド様の器が、あまりにも大きすぎるのです」
平然と言ってのけたゲオルグに、私は思わず眉を跳ね上げた。
「ゲオルグ、貴公は先日までレオナルドを命令違反の咎で審問し、厳しく追及する立場だったはずではないか。身内であろうと公爵閣下への信義のため厳罰を辞さぬと息巻いていたのは誰だ」
「あの答えを聞けば、これ以上の追及など無意味であることは自明です」
ゲオルグはあっさりと白旗を上げてみせた。
「私は先日まで、ウェルマでの成果を報告書の上でしか知りませんでした。ですが、初めてレオナルド様ご自身と法と政について言葉を交わした。……あの方が偶然の思いつきだけで村を動かしているのではないことを、思い知らされました」
冷静な宰相の言葉に熱がこもる。
「難民と移民の定義、命令文の解釈の隙間、そして何よりウェルマ村で叩き出した現実の成果――あれらすべてを計算し尽くした上で、あの方は大ホールの壇上に立っておられた。あそこまで完璧に論理を構築された以上、外務を預かる私とてそれ以上の一言も差し挟めません。むしろ、あの聡明すぎる頭脳を他家への外交や領内統治に生かせぬことこそ、我が家にとって最大の損失です」
いつも融通の利かぬ石頭と評される男が、年端もいかぬ子供の前に完敗を認め、あろうことかその後継を強く推しているのだ。
すると今度は、白い顎髭を撫でながらバルドが身を乗り出してきた。
「殿、ゲオルグの言う通りじゃ。ウェルマ村の四圃式農法、水路整備、そしてドワーフらを迎えて進めている製鉄事業……これらは一村の枠に留めておくにはあまりに惜しい。男爵領全域へ、レオナルド式の改革を早期に導入するべきですぞ」
「領内全域にだと?」
「左様。そのためにも、レオナルド坊ちゃんにはウェルマの執政官見習いと並行して、このわしの下で『家令補佐』の役に就任してもらいたい。領都の内政にも直接関与させ、領全体の改革にその知恵と力を貸してもらうのです」
「……何を馬鹿なことを言っているのだ、叔父上」
私は呆れを通り越して眩暈を覚えた。
「あの子はまだ九歳だぞ。成人前どころか、社交界に顔を出してすらいない小さな子供だ。そのような幼子に家令補佐の重責を背負わせ、あまつさえ長男を差し置いて家督を継がせようなどと……正気とは思えん」
だが、二人の顔に冗談の気配など微塵もなかった。
「ライモンドは生まれた時から、この家を継ぐ者として育ててきた。本人もその責を受け入れ、そのために十五年間研鑽を積んできたのだぞ。それを、弟の才が優れているからという理由だけで覆せと言うのか」
「承知しております。だからこそ、このようなことを申し上げるのは今日が初めてです」
領内の財政と外交を一手に担う二人の老練な実務家が、寸分の揺るぎない真剣な眼差しで、まっすぐに私を見据えているのだ。
「ですが、三年後、五年後にレオナルド様が今以上の成果を挙げられた時、我々は『長男であるから』という一言だけで、あの方を候補から外せるでしょうか」
私は椅子に深く背を預け、腕を組んで思案を巡らせた。
確かに、あの子がこの二年間でウェルマ村で成し遂げた成果は常軌を逸している。土地を肥沃な畑に変え、人口を倍増させ、産業を興し、奇跡としか言いようのない製鉄まで形にしつつある。
そして、先日の審問会で見せつけたあの冷徹なまでの弁舌と法解釈。領地の有力者が揃う前で、眉一つ動かさずに法的な抜け道を突き、居並ぶ大人たちを沈黙させたあの胆力。
父親の目から見ても、あの子の才能が突出していることなど痛いほど分かっていた。だが――。
なおも考えを巡らせる私に、ゲオルグが静かに、しかし重々しい声音で口を開いた。
「僭越ながら、申し上げます」
ゲオルグは一度目を伏せ、自らの言葉の重さを測るように息を呑んだ。
「かの少年は、神童などという生ぬるい言葉で括れる器ではございません。……恐れ多く、このような言い方が正しくないとは重々承知しておりますが」
「……何が言いたい」
私の問いに、ゲオルグは顔を上げ、絞り出すようにその単語を口にした。
「――怪物です」
執務室の空気が、シンと凍りついた。
グレリオ家に忠誠を誓う潔癖な宰相が、主家の血を引く九歳の童子を指して放った「怪物」という異様な評価。
しかし、その言葉を遮る者は誰もいなかった。バルドすらも、否定することなくただ重々しく頷いている。
神童、ではない。常識を超えた知識と手腕を振るい、大人の都合や社会の理を平然と書き換えてしまう、底知れぬ存在。
かつて赤子の頃に囁かれた「悪魔憑き」という忌まわしい噂が、まるで別の意味を帯びて私の脳裏をかすめた。
「……少し、考えさせてくれ」
私は重苦しい沈黙を切り裂くように、低く告げた。
「長男ライモンドにも、次男ロメロにも、それぞれの矜持と未来がある。お前たちの言わんとすることは痛いほど分かった。だが、この家の屋台骨を揺るがす決定を、今ここで即断するわけにはいかん」
「……承知いたしました」
「慎重なご決断を、お待ちしておりますぞ」
二人は深々と一礼すると、音もなく執務室を辞していった。
バタンと重い扉が閉まり、再び訪れた静寂の中、私は机の上に広げられたウェルマ村からの報告書をじっと見つめた。
九歳の我が子が背負う、あまりにも巨大な影。
父親としての誇らしさと、領主としての底知れぬ恐れが綯い交ぜになり、私はただ深く、長く、息を吐き出すことしかできなかった。
-----人物紹介-----
ゲオルグ・ヴァルデス
人族・36歳
グレリオ男爵家の宰相を務める内政官
現当主アントニウスの側室の実兄であり、その妹はアントニウスとの間にマティルダとマルチェロをもうけている
男爵家における外交や他領との折衝、公爵家との連絡、法務を主に担当する
真面目で職務に忠実な実務家
規則と主従の秩序を重視し、曖昧な処理を嫌うことから、融通の利かない人物と思われることも多い
一方で私情と職務を混同することはなく、身内であっても必要とあれば厳しく問い質す
外交実務と文書処理に通じ、グレリオ男爵家と上位貴族との関係を支えている




