召喚命令Ⅲ
男爵邸の執務室の窓を叩く初夏の風は心地よいはずだったが、私の胃の腑は鉛を呑み込んだように重苦しかった。
私は、深く刻まれた眉間の皺を指先で揉みほぐしながら、長年蓄えてきた豊かな白い髭を撫で下ろした。
先代男爵の時代からグレリオ家に仕え、現当主アントニウスの叔父として、この領地の内政一切を取り仕切る「家令」の職を預かっている。
甥である当主アントニウスは、自らの才覚をよく理解している男だ。決して無謀な独断専行はせず、適材適所を重んじ、領内の内政に関しては叔父である私の進言に素直に耳を傾けて統治を行ってきた。
私には子がない。それゆえ、我が甥アントニウスの子らは皆、実の孫のように愛おしかった。
中でも、三男のレオナルドは特別だった。
赤子の頃から滅多に泣かず、冷徹なまでの観察眼を周囲に向け、かつては屋敷の者たちから「泣かずの子」「悪魔憑き」などと根も葉もない噂を立てられ、忌み嫌われていた不遇の幼子。
あの少年に、私は人一倍の愛着と庇護の念を抱き続けてきたのだ。
そのレオナルドが、実務教育の一環として領都から馬で二時間ほどのウェルマ村へ執政官見習いとして赴任してから二年。
届く報告は、驚嘆すべき吉報ばかりだった。
水路の改修に始まり、新農法の導入による大増産、羊毛の地場産業化、果てはドワーフを引き入れての製鉄の試み――。
報告書が届くたび、私は執務室で一人、白い髭を撫でながら「あの悪魔憑きと蔑まれた坊ちゃんが、ここまでの大仕事を成し遂げるとはな」と、驚き、膝を打ち、その目覚ましい活躍を誰よりも楽しみに見守ってきたのだ。
――だが。その誇らしい孫のような存在に、今まさに暗雲が立ち込めている。
「……バルド殿。聞き流すわけにはいきませんぞ。レオナルド様が北の関所から独断で引き入れた者たちの中に、アルヴァ王国の難民が含まれていたのは動かぬ事実です」
机の対面に座る男が、冷たい声音で書類を叩いた。
男爵家の「宰相」として外務全般を統括する男、ゲオルグ・ヴァルデス。
アントニウスの側室の実兄にあたる人物だ。
真面目で職務に忠実、潔癖なまでの実務能力を持つ男だが――いかんせん、融通の利かない石頭だ。
事の起こりは、関所砦から漏れ聞こえてきた難民越境の噂をゲオルグが掴んだことだった。
レオナルドがウェルマ村に羊飼いや狩人、果てはドワーフの一団までも引き入れたという報告を受け、ゲオルグは外務を預かる立場上、これを看過できずに当主アントニウスへ直接報告した。その結果、事実関係を問い質すべく、レオナルドへの召喚状が飛ぶことになってしまったのだ。
「ゲオルグよ。レオナルド坊ちゃんが連れてきたのは、村の開発に不可欠な技術者ばかりだと聞いている。現にウェルマ村の収穫と税収は跳ね上がり、領全体の益となっておるではないか。少々の越境など、領主の裁量でいくらでも言い訳が立つ」
「言い訳など通用しません!」
ゲオルグは眼鏡の奥の目を厳しく光らせ、身を乗り出した。
「問題は、相手が誰かということです。数年前に公爵位を継がれたヴァイシス閣下は、先代の宥和方針を改め、公国全土へ『アルヴァ難民の無秩序な受け入れを即時停止せよ』と厳命されておられるのです!我がグレリオ男爵家と公爵閣下は良き主従関係を築いてきたからこそ、閣下の命を蔑ろにするわけにはいきません」
ゲオルグの言い分は、外務の責任者としては至極真っ当だった。
公爵家への忠節を重んじる当主アントニウスとしても、そしてゲオルグとしても、血縁だからという甘えで見逃すわけにはいかない立場なのだ。正論で固められたその追及に、私としてもぐうの音も出ないのが現実だった。
(……くそっ、頭が痛いな)
私はこめかみを押さえ、心の中で深く呻いた。
職務に忠実なゲオルグを責めるわけにもいかず、主従の信義を守らねばならぬアントニウスの立場も痛いほど分かる。
だが、だからといって、あの類まれなる才能を持つレオナルドを厳罰に処すわけには絶対にゆかないのだ。あの子が築き上げたウェルマの発展を、こんな形で潰されてたまるものか。
何とかしてあの子を守ってやりたい。
処罰を免れさせ、公爵家に対しても男爵家に対しても角が立たない、都合の良い落とし所はないものか。
あれこれと知恵を絞るものの、公爵閣下の直命である以上、どれほど頭を捻っても有効な打開策が浮かんでこない。
明日には、あの小さな執政官が領都のこの屋敷へとやってくる。
呼び出されたあの子がいったいどんな弁明を用意してくるのか、そもそも言い逃れができる腹案などあるのか――考えれば考えるほど、私の胃は縮み上がり、冷汗を拭いながら白髭を強く握りしめるしかなかった。




