狼と猿Ⅳ
春の冷たい風が、ジンジンと脈打つ右頬の腫れを撫でていく。
俺は、飼料作物の畑を囲む頑丈な木柵の柱に、後ろ手に縄でぐるぐる巻きにされて括りつけられていた。
視線を横に向ければ、同じように柱へ縛りつけられた同い年の猿人族ウカンが並んでいる。
親父が騎士様たちと一緒に鉱山の森へ調査に出かけている、その留守の間に事件は起きた。
土手を通る俺の背中に向けて、ウカンが浴びせかけてきた罵詈雑言。
俺自身への侮辱なら、いくらでも言わせておけばよかった。臆病者だろうが負け犬だろうが、耳を伏せてやり過ごすつもりだったのだ。
けれどあいつは、親父のことまで口汚く罵った。
同族の血生臭い襲撃に嫌気がさし、俺を連れて命からがら集落を抜け出してくれた、誇り高い俺の親父を。
それだけは、どうしても許せなかった。
ウカンの気持ちが分からないわけじゃない。
自分の村を焼き払われ、母親を目の前で殺された相手の種族と、仲良く笑い合えるはずなんてない。母親の顔もぬくもりもろくに覚えていない俺にだって、その底知れない喪失感と怒りは痛いほど理解できた。
だが、俺にだって冬の関所にいた頃から今まで、ずっと一方的に罵倒され続けてきた鬱憤が腹の底に溜まっていたのだ。
限界だった。
互いの怒りが一気に弾け飛び、どちらからともなく掴みかかって、泥だらけの取っ組み合いになった。
爪を立て、泥を噛み、夢中で拳を叩きつけ合った。
激しい叫び声を聞きつけて、執政小屋から若様が駆けつけ、畑の奥から巨躯のゴンザさんと、ウカンの親父であるオーカンさんもすっ飛んできた。
大人の牛すら力づくでねじ伏せるゴンザさんに、俺たちは襟首を掴まれてあっさりと引き剥がされ――その結果が、この木柵への磔というわけだ。
若様は、泥まみれで縛られた俺たちを淡い灰色の瞳で見下ろすと、あごに手を当てて小さく息を吐いた。
「……まあ、腹の中に毒を溜め込み続けるよりは、適当に発散した方が良いのかもしれないですね」
呆れたような苦笑いを浮かべる若様には、それほど激しい怒りの色は見えなかった。
問題は、若様ではなく親の方だった。
「この大馬鹿野郎がッ!!」
駆けつけて事情を知ったウカンの親父――オーカンさんの激怒は、まさに凄まじいものだった。
若様の前で村の掟を破りかけた息子に対し、オーカンさんの拳骨がウカンに落ちる。
「いってぇぇぇっ!」
ウカンの絶叫が響くがオーカンさんの怒りは収まらない。
自分たちを受け入れてくれた若様の手前、簡単に許せるはずもないのだろう。
若様はゴンザさんにとめるように命じるとゴンザさんはオーカンさんとウカンの間に割って入りオーカンさんを宥めた。
横目でウカンの顔を見て、少し笑いが込み上げた。
その時だった。
「若様! ただいま戻りました!」
村の木柵の向こうから、馬の蹄の音とともにジェロット様の声が響いた。
森の調査を終えた騎士パウロ様と、背に大弓を背負った親父が村へ帰還してきたのだ。
若様が歩み寄り、パウロ様と親父に向かって事情を手短に説明している。
若様が俺たちの方を指差した瞬間、親父の金色の瞳が見開かれ、顔色がサッと青ざめ、それから一瞬にして真っ赤に沸騰した。
「……バウンド、貴様ッ……!!」
耳を限界まで逆立て、地鳴りのような唸り声を上げながら、親父が凄まじい形相でこちらへ大股に突進してくる。
その手には、獲物の毛皮を剥ぐための分厚い革の手袋が握りしめられていた。
ウカンは頭を押さえ、涙目になりながら恨めしそうに親父を睨んでいる。
どうやら俺も、今からこいつとまったく同じ運命を辿ることになるらしい。
(……若様、ゴンザさん、早めに止めてください……)
迫り来る親父の巨影を見上げながら、俺は固く目を閉じて歯を食いしばるしかなかった。
-----世界設定-----
アルヴァ難民
アルヴァ王国内の政情不安や地域間抗争、食糧不足などを逃れ、南方のアルビオン島へ流入する人々の総称
その多くは人族ではなく、獣人族をはじめとするさまざまな亜人種で構成されている
ノルテン公国では急増する難民に対し国境での流入制限を行っているが、長大な国境線すべてを完全に封鎖することは難しく、山道や森林を越えて非正規に流入する者も少なくない
また、国境地域では労働力を必要とする領主や村落が、個別に難民を受け入れる例も存在する
その扱いについては公国法と各領主の裁量の境界が曖昧であり、しばしば政治的な問題となっている
-----用語解説-----
獣人族
人族と同じく知性と言語を持ちながら、獣類に由来する身体的特徴を備えた亜人種の総称
狼人族、熊人族、猿人族、犬人族、鼠人族など多数の種族が存在し、耳や尾、体毛、嗅覚、筋力など、それぞれ異なる特徴を持つ
アルビオン島でも珍しい存在ではないが、北方のアルヴァ王国には特に多くの獣人族が暮らしている
同じ獣人族という括りであっても文化や生活様式は種族・地域ごとに大きく異なり、歴史的な対立を抱える集団も存在する




