狼と猿Ⅲ
春まだ浅い森の空気は、肌を刺すように冷え切っていた。
ウェルマ村の東側に広がる針葉樹の林を抜け、鉱山へと続く小道に入ると、木々が日差しを遮り、薄暗い陰鬱な静寂が立ち込める。湿った土と腐葉土の匂いに混ざり、どこか鼻をつくような淀んだ気配が漂っていた。
私とジェロット、そして狼人族の狩人ウェイルドの三人は、息を潜めて藪の中に身を屈めていた。
事の発端は、今朝がた村長ジェスキン殿が血相を変えて執政小屋へ駆け込んできたことだった。
鉱山へ向かっていた坑夫が、林の奥で「動く死体」――アンデッドを目撃したというのだ。
報告を受けたレオナルド様は即座に私とウェイルド、そして記録役としてジェロットに現地の状況調査を命じられた。
アンデッド。
命を落とした獣や人の骸が、大気中に漂う魔素を無秩序に吸収し、邪悪な力で再び動き出した魔物の総称だ。生前の記憶や知性などなく、ただ生ある者の温もりを妬むように、無差別に襲いかかり貪り喰らう。放置すれば坑夫たちや村人に犠牲が出るのは時間の問題だった。
「……パウロ様、あそこです」
前方に伏せていたウェイルドが、灰色の耳をピクリと動かし、鋭い金色の瞳で木立ちの隙間を指し示した。狼人族特有の並外れた嗅覚と視力は、森の狩人として実に頼もしい。
指された先、朽ち果てた倒木の向こう側に、よろよろと覚束ない足取りで徘徊する人影があった。
青黒く変色し、ところどころ肉の削げ落ちた皮膚。破れたぼろ布を纏い、喉の奥から「あ、ぐ……」と乾いた濁音を漏らしている。
ゾンビだ。幸いにも、数はあの1体だけのようだった。
「パウロ様、いかがなさいますか? 倒してしまわれますか?」
私のすぐ背後で、小太りの身体を懸命に丸めていたジェロットが、小声で確認してきた。
若君から受けた命令はあくまで『状況の調査』だ。
だが、山野を徘徊するアンデッドが1体きりと分かっているならば、わざわざ村へ引き返して人を集め、再び探し直すより、この場で確実に処分してしまった方が手っ取り早い。
私は剣の柄に手をかけたまま、周囲の気配をさらに探った。
風の音、鳥の羽ばたき、木々のざわめき。ウェイルドも鼻を鳴らして森の匂いを嗅ぎ分けているが、仲間のゾンビや他の魔物が潜んでいる気配はない。
「よし……ここで仕留める。ジェロットは下がっていろ」
私は静かに立ち上がり、腰の長剣を音もなく鞘走らせた。
気配を殺し、風下から一気に間合いを詰める。
私の足音に気づいたゾンビが、濁った白目を剥いて緩慢に腕を伸ばし、腐臭を放つ顎を開いた。
「ア゛ァ……!」
だが、遅すぎる。
実戦を幾度もくぐり抜けてきた騎士にとって、知性も速度もない単なる動く屍など、物の数にも入らない。
踏み込みざま、私は長剣を一閃させた。
鋼の軌跡が薄暗い森を切り裂き、硬化したゾンビの両膝を綺麗に両断する。
つんのめって地面に崩れ落ちた屍の首筋めがけ、返し刃で容赦のない重撃を叩き込み、頭部を完全に切断した。
骨の砕ける鈍い音が響き、地面に転がった肉塊が、ピクピクと痙攣しながら動かなくなった。
「お見事です、パウロ様……!」
駆け寄ってきたジェロットが息を呑む。
だが、これで終わりではない。
私は剣を鞘に納め、左手を胸の前に掲げると、静かに祈りの言葉を紡ぎ始めた。
「慈愛神リューリアよ、悪しき存在があるべき場所に還るようお導きを!」
手のひらから、淡く温かな白銀の光が溢れ出し、転がる死骸を包み込んだ。
神聖魔法――『ターンアンデッド』。
教会の神官や、信仰を持つ騎士が修める一般的な除霊の魔法だ。
アンデッドには、通常の生き物が持つ「死」という概念が存在しない。こうして肉体を切り刻んで行動不能に追い込んでも、放置すれば周囲の魔素を吸い上げ、時間をかけて再び起き上がってしまうのだ。
神聖なる光で取り憑いた魔素を完全に霧散させ、魂のない器を真の「ただの骸」へと還してやらねば、滅ぼしたことにはならない。
白銀の光が収まると、青黒い肉塊から邪悪な気配が綺麗に消え去り、森の淀んだ空気も澄んだ冷気へと戻っていた。
「……ふう。これでよし」
剣の血糊を布で拭い、鞘へと収める。
「ウェイルド、周辺の警戒を解いていいぞ。ジェロット、若様への報告を頼む」
「はっ、承知いたしました!」
仕事を終えた私たちは、まだ冷気の残る森を抜け、若君の待つウェルマ村へと静かに帰還の途についたのだった。




