狼と猿Ⅱ
遠ざかっていく灰色の背中を睨みつけながら、俺は、握りしめた拳をわなわなと震わせていた。
「すまない」だと?
殊勝な顔で耳を伏せりゃ、それで全部帳消しになるとでも思っているのか。
(ふざけるな……!なんでお前らが、そんな顔で生きてやがんだよ……!)
胸の奥の燃えさかる炎が、喉元を激しく焼き焦がす。
目を閉じれば、今でも故郷の光景が、鮮血と炎の匂いとともに脳裏に蘇ってくる。
アルヴァ王国の北東に位置する、木々に抱かれた俺たちの小さな集落。
森の恵みを愛し、痩せた土地を耕して麦や豆を育て、羊の柔らかな毛を刈り、時折森へ分け入って狩りにいそしむ――それが、俺たち猿人族の穏やかな日常だった。
冬の足音が近づき、長く厳しい寒さに備えて村中が食糧の蓄えを増やそうと慌ただしく働いていた、あの日の夕暮れ。
悲劇は、突如として訪れた。
けたたましい遠吠えとともに森から雪崩れ込んできたのは、狼人族の略奪部隊だった。
鋭い爪と牙、容赦のない刃が、叫び声を上げる仲間たちを次々と引き裂いていった。
泣き叫ぶ俺を庇い、血飛沫の中に倒れた母さんの顔。
火を放たれ、燃え落ちる住処。
親父に腕を引かれ、着の身着のままで村を脱出した俺たちが持ち出せたものは、何一つとしてなかった。
それからの記憶は、ただひたすらに白く、冷たかった。
冬の冷気が肌を刺し、足の指の感覚はとうに消え失せていた。胃袋が引き千切れるような空腹に襲われ、親父の背中にすがりつき、雪道で何度も倒れそうになりながら、俺たちは一路南を目指した。
そうして、死に物狂いでたどり着いたアルヴァとアルビオンの国境。
だが、そこに待ち受けていたのは、救いではなく冷酷に閉ざされた巨大な関所の門だった。 吹き溜まりのように蹲る無数の難民たち。
数人の男たちが血走った目で集まり、夜陰に紛れて関所の柵を強行突破する計画を囁き合っていた。
骨と皮ばかりになった俺を見つめる親父の瞳にも、絶望の色が濃く滲んでいた。普段なら絶対に手を出さないような無謀な賭けに乗ろうとしているのが、子ども心にも痛いほど分かった。
うまくいくはずがない。捕まれば殺されるだけだ。
もう、終わりなんだ――そう思った、その日の夕方のことだった。
重々しい音を立てて、関所の通用門が開いた。
現れたのは、護衛の騎士を従えた一人の小さな少年だった。
「羊の世話ができる者を探している」
冷たい風の中に響いたその声に、親父はハッと息を呑み、俺の顔を見てすぐに駆け出した。群がる難民たちを押し分け、あの少年に「うちの親子ならできる」と必死に申し出たのだ。
――そうして、俺は今、このウェルマ村にいる。
『過去の因縁や争いごとを、この村へ持ち込まないこと』
それが、あの若様が俺たち家族をこの村へ迎え入れる際に出した、絶対の約束だった。
頭では分かっている。
あいつら親子が、俺たちの村を襲った張本人ではないことくらい知っている。
むしろ、あいつら狼人族の親子は、同族たちの野蛮な略奪や血生臭い襲撃に嫌気がさして集落を飛び出し、国境まで逃げてきたのだということも、親父から聞かされていた。
だが――だがしかしだ。
目の前に狼の耳と尻尾を見せつけられて、どうして平常でいられるっていうんだ。
狼人族が母さんを殺した。あいつらと同じ狼人族が俺たちの家を奪った。
それなのに、あいつは謝るだけで牙も剥かず、まるで自分だけは関係ありませんとでも言いたげに逃げていく。その姿が、無性に許せなくて、たまらなく惨めで、腹が立って仕方がなかった。
「そこまでにしろ、ウカン!」
背後から、大気を裂くような鋭い怒号が飛んできた。
土手を駆け下りてきた騎士のパウロ様が、長剣の柄に手をかけたまま、射抜くような厳しい視線を俺に向けている。
(……っ!)
心臓が跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝った。
これ以上はいけない。約束を破ってあの若君様に愛想を尽かされれば、俺も親父も、あの凍える地獄へ送り返されてしまう。
「……ッ!」
俺は奥歯をギリリと噛み締め、悔しさに震える拳を解いて数歩後ずさった。
パウロ様から視線を逸らし、地面に置かれた木桶の縄を乱暴に掴み上げる。
そして、何事もなかったかのように背を向け、柵の中の羊たちの飲み水桶へ新しい水を注ぎ込む作業へと、無理やりに戻ったのだった。




