天才Ⅲ
目の前にしゃがみ込んだ若君様から差し伸べられた手を見つめながら、私は息をするのも忘れていた。
怒られる。叩かれる。大事な本を暖炉にくべられて燃やされてしまう。
そう固く信じ込んで首をすくめていた私の耳に届いたのは、信じられないほど甘く優しい問いかけだった。
『君は、もっとたくさんの「本」を読みたいかい?』
(……ほん……?)
驚きのあまり、私は背中に隠していた紙束を抱きしめたまま、ぽかんと口を開けてしまった。
世界に一冊しかないと思っていた、あの神官様が残していった紙の束。それ以外にも、まだ読んだことのない「本」というものが、この世にはたくさんあるというのだろうか。 訳も分からぬまま、私は小さく、こくりと頷いていた。
それからの出来事は、まるで激しい濁流に飲み込まれたかのように目まぐるしかった。
若君様は歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれた。
ゴンザさんの大きな手に腕ごとしがみついてついていく、私たちは村長様の立派な屋敷へと向かった。 手狭な執務室で、若君様は村長様に向かって何やら難しい言葉で頼み込んでいた。
「この子を私付きの見習いとして召し上げたいのです」
村長様はすっかり禿げ上がった頭をしきりに撫で回し、困り果てたような顔で唸っていた。
「農奴は領主様の土地に属する者でございますから、若様がお召し上げになること自体に、わしが異を唱える筋合いはございませんが…… 。ですが、孤児の娘では父君……男爵様が何とおっしゃるか……」眉をハの字にして狼狽えている。
何を話しているのか詳しくは分からなかったけれど、村長様がひどく困っていることだけは伝わってきた。
(やっぱり、私が文字なんて読んだから……悪いことをしたからなんだ……)
胸がぎゅっと縮こまり、今にも泣き出しそうになる。
けれど、若君様は少しも引き下がらなかった。
「父上への報告と手続きは、すべて私が責任を持ちます。農奴籍から外すために必要な手続きや負担があるなら、私が引き受けます」
そうきっぱりと告げると、若君様は私を連れて、村の端にあるご自身の住まいへと連れていかれた。
小屋の中には、大柄な騎士様と、小太りの従士様、そして若様より少し年上の男の子がいた。
若君様が私の足元の文字のことや、本を一人で読んでいたことを説明すると、その場にいた大人たちも男の子も、全員が一様に目を丸くして息を呑んだ。
「ば、馬鹿な……! 独学で古代帝国語をだと……!?」
騎士様が絶句する。
「待ってください。つまり……誰にも文字を教わらず、アルビオン語を読み解いたうえで、古代帝国語まで覚えたというのですか?」
小太りの従士様も信じられないといった様子。
「レオナルド様、ま、真でございますか……!?」
年上の少年も呆然とした様子だった。
「いや、しかし、若様の例もある、ないことではないのか……」
一同の小さな納得に若様が返す。
「私の事情とは少し違うが……まあ、いい」
みんなが驚いた顔で、穴が開くほど私を見つめてくる。
私はいったい、何をしてしまったのだろう。
ただ文字を読んでいただけなのに。そんなにいけないことだったのだろうか。
わけが分からず、ただただ不安で足が震えた。
小屋の裏手へ連れて行かれ、桶に汲んだ水で身体を綺麗に洗われた。
冷たい水に身を縮めながら泥や垢を落としてもらうと、ゴワゴワとした薄汚れたぼろ布の代わりに、仕立ての良い柔らかな亜麻色のチュニックを着せられた。
生まれて初めて着る、ちくちくしない清潔な服。
手足が震えるほど、もう怖くてたまらなかった。
こんなによくしてもらって、あとでどんな恐ろしい罰が待っているのだろう。
「怖がらなくて大丈夫ですよ、テオドラ」
怯える私に、若君様はふわりと笑いかけてくれた。
「今日から君には、オズモと一緒にジェロットから正式な『文字』と『計算』を学んでもらいます。君のその素晴らしい頭脳を、私のために使ってほしいんだ」
オズモ様と呼ばれた栗色の髪の男の子が、机の向こうから優しく手を振ってくれた。
小太りのジェロット様は、何やら分厚い羊皮紙の束を抱え、「ううむ、若様はとんでもない人材を見つけられました」と嬉しそうにしながらも、私に座るための椅子を引いてくれた。
泥にまみれてうずくまっていた昨日までの世界が、たった一日で消え去ってしまった。
温かい部屋、綺麗な服、そして机の上に山積みにされた、見たこともない真新しい紙と墨の匂い。
不安で胸が張り裂けそうだったけれど――机の上に広げられた文字の列を見た瞬間、私の胸の奥で、小さな灯火がパチリと弾けた。
(……読める。もっと、読んでもいいんだ……)
こうして、私の、信じられないような新しい生活が始まったのだった。
-----人物紹介-----
テオドラ
人族・5歳
ウェルマ村で暮らす農奴の孤児
幼くして両親を亡くし、村の孤児たちとともに暮らしている
かつて知識神ルシーナの神官が残した一冊の古書を拾い、誰に教わることもなく、日常で耳にする言葉や目にした文字と照らし合わせながら、その内容を独力で読み解き始めた
古書にはアルビオン語と古代帝国語が併記されていたが、本人にはそれらが異なる言語であるという認識すらなく、双方を一つの文字体系として吸収している
並外れた集中力と旺盛な知識欲を持ち、文字の書かれたものを読むことを何より好む
レオナルドにその才能を見出され、彼のもとで初めて正式な学問を学ぶことになる




