天才Ⅱ
秋の冷たい風が、薄汚れた粗末なチュニックの裾を揺らしていた。
少し離れた広場からは、他の孤児たちや村の子どもが藁の球を蹴り合ってあげる、楽しそうな声が聞こえてくる。
けれど、私にとって、そんな遊びはどうでもよかった。
軒下の湿った土の上にうずくまり、私は膝の上に広げた古びた革表紙の束を、夢中になって見つめていた。
手垢で黒ずみ、端がボロボロにほつれたその紙片に並んでいるのは、墨で書かれた規則正しい幾何学のような形の列――「文字」だ。
紙をめくる指先は冷え切っていたけれど、胸の中はずっと熱かった。
もう何十回、何百回と繰り返して読んだはずの言葉たち。
けれど、一文字一文字を頭の中でなぞるたび、頭の奥に知らない世界が広がっていくような感覚がたまらなくて、私は時間を忘れて読み耽っていた。
右手に握りしめた尖った小石を、足元の柔らかい地面に突き立てる。
本に記された形を思い出しながら、カリカリと音を立てて土の上に文字を刻んでいく。
まっすぐな線。ゆるやかな曲線。
石の先が土を削る感触が心地よくて、私は息を詰めるようにして地面の溝を深めていった。
「――何をしているの?」
不意に、頭の上から声が降ってきた。 秋の冷たい風を溶かすような、幼さを残した、穏やかで柔らかな声。
「――ッ!」
心臓が跳ね上がり、全身の血がさっと引いていくのを感じた。
驚いて振り向こうとした私の視界の端に、仕立てのいい上質な服と、泥ひとつついていない革靴が映り込む。
(あのお方だ……!)
半年ほど前、この村へとやってきた、城砦のとても偉い若君様。
大人たちがみんなペコペコと頭を下げて、村長様ですら緊張した顔でかしずいていた、貴族のお方。
(どうしよう、どうしよう……!)
農奴の身分である私が、泥だらけの手で文字を書き、どこかから拾ってきた本を読んでいるなんて知られたら、絶対にひどく怒られる。
「生意気だ」と叩かれるかもしれない。大事なこの本を取り上げられて、暖炉にくべられて燃やされてしまうかもしれない。
以前、大人に見つかった時には「農奴の娘が余計な真似をするな」と本を取り上げられそうになったこともある。
恐怖で頭が真っ白になりながら、私は咄嗟に本を両手で抱え込み、自分の背中の後ろへと隠した。
地面に小さく縮こまり、首をすくめて固く目を閉じる。
心臓が耳の奥でドクドクと恐ろしい音を立てていた。
怒鳴り声が飛んでくるのを待ちながら、私はただ土の地面を見つめて沈黙するしかなかった。
どうやって謝ればいいのか。逃げ出したくても、手足が震えて力が入らない。
けれど――頭の上から落ちてきたのは、怒号でも罵声でもなかった。
「……!!」
若君のその声は、怒りではなく、驚きを帯びていた。
気配がふっと低くなり、私のすぐ横にしゃがみ込む。
若君の淡い灰色の瞳がじっと見つめていたのは、震える私の身体ではなく――私がさっきまで小石で土の上に書き散らしていた、いくつもの「文字」の跡だった。
◇
粗末な麻のチュニックを着たその少女は、私の足音に気づくなり、両手で何かを背後へ隠すようにして地面へ小さく丸まっていた。
痩せ細った小柄な身体、手入れもされずぼさぼさに乱れたグレーの髪。
すき間から覗く大きな瞳は、夕暮れの陽光を宿したように深い濃い琥珀色をしていたが、その瞳孔は恐怖で激しく揺れ、小動物のように怯え切っている。
五歳かそこらだろうか。貴族である私の姿を見て、農奴の身分ゆえに折檻でもされると思い込んでいるのは明白だった。
だが、私の視線を真に奪い、硬直させたのは――彼女がうずくまる足元の地面だった。
尖った小石で引っ掻くようにして、湿った黒土の上に刻まれた無数の跡。
それは幼子の無意味な落書きなどではない。明らかに、確固たる秩序を持った『文字列』だった。
(……なんだ、これは?)
思わず息を呑み、膝をついてその文字の列を凝視した。
目を疑うような光景だった。
そこに書かれていたのは、現在の公国で広く使われている「アルビオン共通語」の文字。……だけではなかった。
その合間に数百年前に滅びた「古代帝国語」の文字とおぼしき記号が、平然と同じ一文の中に同居していたのだ。
文脈としては一応の文法をなぞりながらも、使われている文字体系がごちゃ混ぜになった、極めて奇妙で不揃いな一文。
(これを……この幼い少女が書いたというのか?)
もし仮に、大陸の宮廷で英才教育を受けた大貴族の令嬢ならまだ分かる。
だがここは、文字の読み書きができる者など村長か商人くらいしかいない、最果ての片田舎の農村だ。しかも目の前にいるのは、薄汚れたチュニックを纏った農奴の子供である。
「……ねえ。これは君が書いたのかい?」
できる限り声を潜め、威圧感を与えないよう穏やかに尋ねてみた。
しかし、少女は背中に抱えた何かをさらに強く抱え込み、ただ蒼白な顔で首をすくめて沈黙を守るばかりだった。唇をきつく噛み締め、小刻みに震えている。
「若様。……こんなところで、何をされておりますので」
背後から、地響きのような太く低い声が落ちてきた。
振り返ると、熊人族の古作長ゴンザ殿が、手桶を片手に歩み寄ってくるところだった。
「ゴンザ殿。この子は?」
私の問いに、ゴンザ殿は少女と足元の土の文字を交互に見やり、困ったように分厚い眉を下げた。
「……テオドラ、といいやす。今年で五歳になった、人族の娘です」
「テオドラ……」
「ええ。両親は数年前に流行り病で相次いで亡くなりましてな。身寄りのない農奴の孤児ですが、村長の計らいで、他の孤児たちと一緒に村の一角で暮らさせてもらっております。……何か、若様に無礼でも働きやしたか?」
「いえ、無礼など何一つ。……ただ、これを見ていたのです」
私が地面の文字列を指し示すと、ゴンザ殿は「ああ……」と太い首を掻いた。
「昔、この村に知識神ルシーナの神官様が数年ほど滞在されておりましてな。その御方が旅立つ時、小屋に古い本を一冊置いていったんです。テオドラはそいつを見つけてから、誰に教わるでもなく毎日毎日飽きもせず眺めておりまして……」
ゴンザ殿は何気ない調子でそう言った。 だが――その言葉の裏にある事実を理解した瞬間、私の背筋に、雷に打たれたような戦慄が走った。
(……誰にも教わらずに、独学で覚えた、だと……!?)
言葉が出なかった。
私自身、この世界の言語をいくつも習得してきた。だが私には、八十年の人生で蓄えた知識も、言語というものがどういう仕組みで成り立っているかという理解もあった。何より、生まれた直後から周囲の会話を聞き続けるという、膨大な手掛かりがあった。
だが、目の前のこの少女は違う。
母語の文字の概念すら持たないはずの五歳の農奴が、何の前知識も、文法書も、指導者すら存在しない極限の状況で――ただ一冊の書物を眺め、そこに並ぶ記号の形と反復を拾い、日常で耳にする言葉や、わずかに目にした文字と結びつけながら、自分なりに「意味のある文字」として読み解き始めているのだ。
少女は、これが二つの異なる言語であることすら知らないのだ。
神官の残した本が、アルビオン語と古代帝国語の対訳宗教書だったのだ。少女にとっては、それがどの国の言葉かなどという区分けはない。目に見える『文字』という記号のすべてを丸ごと頭に叩き込み、自分の中で一つの言語体系として呑み込んでしまった結果が、この足元の文字列なのだ。
(自分など足元にも及ばない、本物の――文字通りの『天才』だ。いやその言葉すら生易しい)
前世の官僚機構や政界で、数多くの秀才や切れ者を見てきた。
だが、これほど純粋な知性の化け物を、私はかつて目にしたことがない。
これからの領地経営において、道路や水路の土木工事、軍制改革、交易の拡大を進めるにつれ、処理すべき情報と書類の量は天文学的に膨れ上がる。
ジェロットのような有能な実務官僚は喉から手が出るほど欲しい。
識字率の低いこの世界で官僚制度など夢のまた夢と考えていたが……。
泥にまみれた最果ての村の軒下に、途方もない原石が眠っていた。
「……テオドラ」
私は胸の奥で沸き立つ興奮を懸命に押し殺し、目線を合わせるように深くしゃがみ込んだ。
そして、怯えて小さく丸まる少女へ向けて、穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を差し伸べた。
「君は、もっとたくさんの『本』を読みたいかい?」
私のその言葉に、少女の琥珀色の瞳が、驚きに大きく見開かれたのだった。




