種まき
ウェルマ村に着任した翌朝のことだ。
村長宅の納屋を間借りした手狭な詰所で、木箱を並べただけの机を囲み、私とレオナルド様、そして案内役の古作長ゴンザ殿が額を突き合わせていた。
木箱の上には、昨晩のうちに私が書き上げた一枚の図面が広げられている。ウェルマ村の中央を流れる川から、領主直轄農地へと一直線に水を導くための「水路改修と区画整理」の設計図だ。
村を流れる水量は豊富だが、現状は各農民が自分の都合に合わせて勝手気ままに溝を掘り進めた結果、水流は乱れ、下流へ水が届かずに争いの火種にすらなっているとゴンザ殿から聞かされていた。
それを是正するため、まずは領主の直轄農地へ向けて直線的な幹線水路を一本通し、無駄のない配水区画を整える。若君から提示された「インフラの規格化」という思想を、私が図面として形に落とし込んだものだった。
「……なるほど。確かにこの図面通りなら、水は澱みなく綺麗に流れる」
図面を覗き込む熊人族の巨躯、ゴンザ殿が感心したように太い指で線をなぞった。
「若様、人を集めましょうか? わしが声をかければ、農奴の若い衆を十人ばかり……」
「いえ、ゴンザ殿。その必要はありませんよ」
レオナルド様は穏やかに首を横に振られた。
「今は春の種まきの大事な時期です。村の皆の手を止めるわけにはいきません。皆には、今まで通りいつもの仕事を続けてもらいましょう」
「ですが、水路を掘り直すとなれば、大仕事になりますぞ……?」
困惑する大男に、七歳の若君は背後に控える騎士パウロ様と、その息子オズモを振り返り、事も無げに告げたのだ。
「なに、大掛かりな工事にするつもりはありません。……まずはパウロ、オズモ、そして私とジェロットの四人で、この区画の掘削と土留めを始めます」
「は……!? レオナルド様自らが、泥仕事をおやりになるのですか!?」
パウロ様が仰天して声を上げたが、私も心底肝を冷やした。高貴な御子が自ら鍬を握るなど、前代未聞の事態である。
しかし、若君の眼差しは揺るぎもしなかった。
「最初の一本くらいは自分たちでやりましょう。実際に掘ってみなければ、何人で何日かかるのかも、どこで問題が出るのかも分かりませんからね。それに、最初から村人へ命令だけしても信用は得られません」
自ら泥を被り、身をもって工数を測るという徹底した現場主義。
だが、その水路工事を始めるにあたって、避けては通れない致命的な課題が存在していた。
村の土壌は硬く、砂利が混ざった痩せ地だ。村人が使う木製や先端に少し鉄を被せた程度の粗末な農具では、真っ直ぐに深く溝を掘り進めることすらままならず、効率が悪すぎるのだ。
そこで、若君は私に向き直り、静かに命じられた。
「ジェロット、悪いけれど今日のうちに一度、領都へ戻ってくれないかい?」
「えっ……領都へ、でございますか?」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
生まれたばかりの我が子と、産後の妻フローラを残してきた身としては、確かに家族の顔が見たくないと言えば嘘になる。だが、ウェルマ村と領都リオネルは馬を飛ばせば日帰りが十分に可能な距離だ。執政官見習いといってもずっとこの村に逗留するわけではなく、定期的に領都と行き来を繰り返す手筈になっている。
何より、武芸で落ちこぼれた私を「領地の頭脳になれ」と認めてくださった若君のそばを、少しでも離れたくはないという誇りがあった。
しかし、若君の意図は私の甘い予想のさらに先を行っていた。
「領都の鍛冶屋へ赴いて、頑丈な『鉄製』の鋤、鍬、ツルハシを――一揃い、特注で急ぎ打たせてほしいんだ」
「て、鉄製の農具……でございますか?」
私は息を呑んだ。
鉄は軍の槍や剣、甲冑へと最優先で回される極めて貴重な戦略物資だ。高価な鉄を惜しまず使った頑丈な農具など、武具並みに値が張る贅沢品である。活動予算も潤沢とは言えない。
だが、レオナルド様の狙いは明確だった。
「水路を直線に切り拓き、土手を固めるには、石混じりの硬い土を砕く本物の道具が絶対に要る。予算の都合もあるから、まずは我々が使う一揃いだけでいい。鉄の道具がどれほど生産性を跳ね上げるか、身をもって検証するんだ」
(……道具の進化による、作業効率の劇的な向上……!)
私が引いた図面を実現させるために、欠かせない最後の鍵がその鉄製農具なのだ。
新米の父親である私を気遣い、妻子のもとへ帰してやりたいというお優しさを滲ませつつ、こうして水路計画の成否を分ける極めて重大な役目を託してくださった。
その信頼の重さに、胸の奥が熱く震えた。
「かしこまりました! このジェロット、若様のご期待に添えるよう、腕利きの鍛冶屋と直談判してまいります!」
「うん、頼んだよ。……ああ、それからジェロット。少しは家で体を休めて、フローラと赤ん坊の顔をゆっくり見てくるんだよ」
「ははっ、ありがたき幸せにございます!」
私は深々と一礼し、図面を丁寧に丸めて木箱へ置くと、風のように詰所を飛び出した。
背中に若君の温かな眼差しを感じながら、私は一路、領都へ向けて愛馬を力強く走らせ始めたのだった。
◇
ジェロット様が跳ねるように馬を走らせ、領都へ向けて飛び出していった後。 僕――オズモは、父上とレオナルド様に付き従い、世話役のゴンザさんの案内で村を巡ることになった。
今年で八歳になった僕にとって、城砦の外にある農村をこうして歩くのは初めての経験だった。
大人の背丈ほどもある木柵の内側に広がるのは、白っぽく硬そうな土の畑と、煙を上げる質素な藁葺き屋根の家々。すれ違う村人たちは、泥にまみれた麻布をまとい、痩せた顔に深い皺を刻みながらも、みんな一様に立ち止まって頭を下げてくる。
貧しいけれど、城下の物乞いのような荒んだ気配はない。どこか長閑で、静かな空気が流れていた。
案内役のゴンザさんは、見上げるような巨躯の熊人族だ。
天井梁に頭が届きそうな体つきで、丸太のように太い腕をしている。歩くたびに地面が揺れるんじゃないかと思うほどの迫力だが、その口ぶりは驚くほど穏やかで、言葉数も少ない。すれ違う農奴の子どもが転べば、大きな手で無言のままひょいと抱き起こし、泥を払って頭を撫でてやる。村の誰もがこの大男に親しげな視線を向けている理由が、僕にもすぐに分かった。
昼食を済ませた午後からは、いよいよ作業が始まった。
ジェロット様が残していった水路の図面を片手に、僕たちは領主直轄農地の境界へと向かった。
「オズモ、そこの麻紐を張ってくれ。パウロ、その位置に目印の木杭を打ち込んでください」
レオナルド様の的確な指示のもと、僕と父上で杭打ちと縄張りを進めていく。
直線的に水を引くための基準線を、地面に引いていく施工準備だ。
「……ふう。レオナルド様のなさることには、もう驚かないと誓ったはずなのだがな」
大きな木槌を振り下ろしながら、父上がぽつりとぼやいた。昨年の学習室で「兵站」や「参謀」の話を聞かされて以来、父上はレオナルド様の問いに以前よりずっと真剣に耳を傾けるようになった。
けれど、たぶん明日にはまた別のことで目を丸くして驚いているに違いない。
それくらい、この方の行動や考え方は僕たちの常識とかけ離れているのだ。
そもそも、城砦に住まう貴族の若君自らが、泥だらけの土手で木杭の位置を測り、土木工事の下準備をするなんて話、吟遊詩人の物語ですら聞いたことがない。
夕方までみっちり測量を終え、夜は村の端にある古い空き家を使わせてもらうことになった。
かつて炭焼きが住んでいたという丸太小屋で、隙間風こそ入るものの、雨露をしのぐには十分だった。
父上が手早く炉に薪をくべ、火を起こす。ゴツゴツとした木の床に硬い敷布を敷いただけの粗末な寝床だったが、レオナルド様は何一つ嫌な顔をせず、むしろ「風情があっていいね」と笑いながら、図面の修正に蝋燭の灯火を注いでいた。
その底知れなさに、僕は改めて胸を打たれながら眠りについたのだった。
――ところが、明けて次の日。
朝の冷え込みが和らぎ、太陽が中天に差し掛かろうとする昼前。
勢いよく響く蹄の音とともに、信じられない人物が村の木柵をくぐり抜けてやってきた。
「……ジェロット様!?」
思わず声を上げた僕の視線の先で、愛馬の首を叩きながら誇らしげに胸を張る、あのマッシュルームカットの小太りな従士の姿があった。
「戻りましたぞ、レオナルド様!」
馬から滑り降りて駆け寄ってきたジェロット様を見て、父上は口をへの字に曲げ、レオナルド様は手にした木片を取り落としそうになっていた。
「……ジェロット。お前、何を考えているんだ?」
父上があきれ果てた声で腕を組む。
「妻と生まれたばかりの赤ん坊を置いて、なぜもう戻ってくる」
「少しは家庭を大事にしろ」と、武骨な騎士である父上が本気で困惑している。
レオナルド様もまた、青ざめた顔で額に手を当てて天を仰いでいた。
「ジェロット……君、まさかフローラの顔を見るなり飛び出してきたんじゃないだろうね? 私はてっきり、数日は領都でゆっくり過ごしてくるものだとばかり……」
「滅相もございません! 若様の大事な初陣に、このジェロットが不在などあり得ませんから!」
ジェロット様は汗を拭いながら、満面の笑みで胸を叩いた。
「ご安心ください! 腕利きの鍛冶屋を叩き起こして手付金を払い、特注の鉄製農具一式をねじ込んできました! 来週の初めには仕上がって届く手筈にございます!」
報告を終えたジェロット様は、若君と父上のあ然とした視線などまるで気にしていない様子だった。
それどころか、昨日自分が引いた図面が実際の地面にどう杭打ちされたのか気になって仕方がないらしく、早足で畑の方へと歩き出してしまう。
「おお……! 素晴らしい、あそこに杭を打ったのですね! 水流の傾斜もちゃんとできていますね!」
春の風が吹き抜ける中、腰に手を当てて楽しげに現場を見つめるジェロット様の背中。
その屈託のない熱意を前に、レオナルド様は「……来週、領都に戻ったらフローラに叱られるのは私だな……」と小さく呟き、父上とともに深く長いため息をつくのだった。
◇
春の光が力強さを増し、初夏の気配が微かに漂い始めた頃のことだ。
二週間前、私とパウロ、オズモ、そして領都からすぐに戻ってきたジェロットの四人で始まった水路の掘削作業は、当初の予想を遥かに超える早さで進んでいた。
最初は遠巻きに眺めていた農奴たちだったが、自分の仕事に目処がついた者から「手伝わせてください」と一人、また一人と鍬を持って加わってくれたのだ。
何より大きかったのは、ジェロットが領都の鍛冶屋から調達してきた特注の「鉄製農具」の威力だった。
石や硬い粘土層に当たれば刃こぼれや柄折れを起こしていた従来の木製農具とはまるで違う。ツルハシが火花を散らして砂利混じりの土を容易く砕き、幅広の鉄の鍬が深く滑らかに土手を削り取っていく。道具の劇的な進化に目を丸くした農奴たちは、奪い合うようにして鉄具を手に取り、作業効率は何倍にも跳ね上がっていった。
そして今日――。
いよいよ領主直轄農地へと繋がる新水路の土留めを解き、本流の水を流し込む瞬間を迎えた。
サラサラと澄んだ音を立てて、勢いよく水が直線的な水路へと滑り込んでいく。
ジェロットの計算通り、高低差と傾斜を一定に保った水路は、大きな淀みを作ることなく、水は狙った区画まで流れていった。かつてあちこちで起きていた泥水の停滞や土手の決壊が嘘のように豊かな水流が、これまで水の届きにくかった直轄農地の奥まで流れ込んでいった。
「お、おい……見ろよ、綺麗に水が入っていくぞ!」
「泥が溜まらねえ! うちの畑の水路よりずっと早い!」
作業を見守っていた近隣の農民たちが、どよめきとともに集まってきた。
彼らの目は、淀みなく流れる水路と、泥だらけの鉄製農具に釘付けになっている。
「ゴンザの兄貴! うちの畑にもあの水路を引いてくれねえか!」
「そうだ、頼むよ! 毎朝の水汲みと泥上げだけで腰が抜けそうなんだ!」
口々に懇願し、熊人族の古作長へ詰め寄る村人たち。
ゴンザ殿は太い首筋を掻き、困り果てたような顔で視線をこちらへ向けてきた。
(予想以上の反響だな)
私は泥で汚れた手を拭い、微笑みながら人垣の前へと歩み出た。
「皆さん、落ち着いてください。この鉄製の農具一式は、順番にお貸ししますよ。壊さないよう大切に使ってくれれば、誰が使っても構いません」
「ほ、本当ですか、若様……!?」
農民たちの顔に歓喜の色が広がる。
私は即座に後ろへ控えていた従士へ向き直った。
「ジェロット。希望のあった畑の水路図面を引いてあげてください。それから、ただ溝を掘るだけでなく、日当たりと風の通り、そして水の抜け具合を考慮して、農地の区画そのものも再調整してあげるんだ」
「はっ! お任せください!」
ジェロットは嬉々として羊皮紙と炭を取り出した。 単に水路を通すだけでなく、日照や風向きに合わせた区画整理を行えば、土地全体の生産性はさらに一段階引き上がる。
「もし人手が足りないようなら、私たちも手伝いますからね」
私がそう声をかけると、農民たちは「め、滅相もございません!」「貴族の若様にこれ以上泥仕事をさせるなど……!」と顔を青くしてしきりに恐縮し、頭を下げて散っていった。
泥を被る為政者の姿を見せ、確固たる結果を突きつける。そのプロセスを経て、彼らの頑なな警戒心が急速に尊敬へと変わりつつあるのを感じていた。
その日の夜。
私は古い丸太小屋の詰所にゴンザ殿を招き、ささやかな食事を振る舞った。
食卓に並べたのは、パウロが狩ってきた野ウサギの肉を炙ったものと、薄切りの麦パン、そして根菜の煮込みだ。普段は塩味の芋スープばかり啜っているという大男は、恐縮しながらも山盛りの肉を美味そうに平らげてくれた。
食事が一段落した頃合いを見計らい、私は本題を切り出した。
「ゴンザ殿。水路の開通、本当にご苦労様でした。……実は、水が引けたこの機に、直轄農地の一部を使って試してみたいことがあるのです」
「……試したいこと、でございますか」
ゴンザ殿は太い腕を組み、濁りのない黒い瞳で私を見つめ返した。
「ええ。現在、この村で行われている農法は、十年ほど前にアルビオン海峡を挟んだ中央大陸のガルディア王国から伝来した『三圃式農法』ですね?」
「……へい。畑を三つに分け、春蒔き、秋蒔き、そして一年休ませる休閑地を順繰りに回すやり方です。これにしてから、昔よりは畑が保つようになりました」
十年前に外から入ってきた技術が定着しているということは、この村の農民も決して頑迷な守旧派ばかりではないということだ。ならば、次の段階へ進める土壌はある。
「ええ、優れた農法です。ですが私は、その三つのローテーションにもう一つを加えた『四つの区画を巡る農法』を試したいのです」
私は木箱の机の上に、炭で簡単な四等分の円を描いた。
「つまり小麦、根菜、大麦、飼料作物と順に育て何一つ植えずに眠らせておく『休閑地』をなくすのです。そして、飼料作物が育ったその区画で、羊や豚などの家畜を放牧して飼育します」
前世の歴史で「ノーフォーク農法」と呼ばれ、農業革命の引き金となったシステムだ。
だが、長年土と生きてきた現場の古作長は、即座にその急所を鋭く突いてきた。
「……若様。休閑地をなくして畑を使い続ければ、土地はあっという間に痩せ細り、作物が育たなくなっちまいます。土を休ませる時間は、どうしても必要です」
至極もっともな懸念だ。素人の思いつきで土を殺されてはたまらないという、農業従事者としての切実な訴えだった。
私は頷き、静かに首を横に振った。
「普通に作物を植え続ければ、確かに土地は痩せます。ですが、飼料作物であるクローバーのような草には、痩せた土を肥やす働きがあるのです。さらに重要なのは、そこで家畜を飼うことです」
「家畜を……?」
「そこで家畜を飼えば、草を食べた家畜の糞尿がそのまま畑へ戻る。さらに家畜小屋で集めた敷藁や糞を堆肥にして戻せば、土から奪った養分を循環させられます」
休閑地をなくして食糧生産を維持しつつ、同時に家畜を太らせて肉や乳、羊毛を得る。
農業と畜産を有機的に結びつけるこのサイクルの説明に、ゴンザ殿は息を呑んだ。
「……休ませる代わりに、草を食わせ、糞で土を肥やす……」
大男は太い指先で顎を撫で、頭の中で自らの経験と照らし合わせるように深く沈黙した。
やがて、その濁りのない瞳が力強い光を帯びる。
「理屈は……通っております。何より、若様が自ら泥を被ってあの見事な水路を通されたのを見ました。……分かりました。直轄農地の四つのエリア、そのやり方でわしが試してみます」
「ありがとうございます、ゴンザ殿。頼りにしていますよ」
私は心からの笑みを浮かべ、大男の分厚い手としっかりと握手を交わした。
直轄農地という限られた試験場での小さな実証実験。
作物の育て方そのものはゴンザたち現場のプロに委ね、私はあくまで「循環の仕組み」を提供する。
ウェルマ村の土壌を劇的に変える開発の芽吹きが、確かな手応えとともに、静かに息吹き始めていた。
-----用語解説-----
四圃式農法
レオナルドがウェルマ村の領主直轄農地で試験導入した輪作農法
従来の三圃式農法では、畑を三つに分けて春蒔き、秋蒔き、休閑地として順番に使用していたが、四圃式では休閑地を設けず、小麦、根菜、大麦や豆、飼料作物などを順に栽培する
飼料作物を育てた区画では家畜を放牧し、その糞尿や家畜小屋から出る堆肥を農地へ戻すことで、農業と畜産を組み合わせながら地力の維持を図る
レオナルドは前世の農業知識を参考にしつつ、この世界の気候、作物、家畜事情に合わせて調整し、まずウェルマ村の直轄農地で小規模な実証を始めた
後世にノルテン式農法として世界的に広く知られるようになる




