回顧
「権藤さん」
私は、畳の上で静かに頭を下げた。
「党を救うためです。ここで退いていただきたい」
都内某所、料亭の離れ座敷。
障子越しに揺れる庭灯りが、磨き込まれた座卓の上に淡い影を落としていた。外の喧騒から切り離されたその空間に、酒の匂いと、張り詰めた沈黙だけが漂っている。
私の正面に座る男――権藤清十郎は、盃を持ったまましばらく動かなかった。
今年で八十二。
だが、その眼光はいまだ衰えていない。
与党最長老であり、権藤派の領袖。幹事長、官房長官、財務大臣を歴任し、裏でも表でもこの国の政治を動かしてきた男だ。
そして私にとっては政敵であり、同志であり、最高の戦友でもあった。
「……扇」
権藤は低く笑った。
「お前も、ずいぶん偉くなったものだな」
「総理までやらせていただきましたので」
「昔のお前なら、もう少し可愛げがあった」
「政治家に可愛げなど不要です」
「違うな」
権藤は盃を置いた。
「国を背負ってから、お前は笑わなくなった」
私は答えなかった。言い返す言葉はいくらでもある。だが、そのどれもが言い訳にしかならないことを、私は知っていた。
齢八十。私は扇源次郎。
現職の外務大臣であり、十五年前には内閣総理大臣の椅子にも座った。これまで計六つの主要閣僚を歴任し、今も与党最大派閥を率いている。
政治家としては、成功した人生だった。
だが、人間として誇れる人生だったかと問われれば、胸を張ることはできない。
女好きと書かれたこともある。隠し子の存在を週刊誌に暴かれたこともある。自分に都合のいいことを言えば、妻を愛していたし、家族も大切に思っていた。だが、政治のために後回しにしてきたものが山ほどある。
それでも、国を良くしたかった。私の政治信条は、昔から一つだけだ。
――国益を最優先にする。それ以外は、すべて手段に過ぎない。
正しい政治など存在しない。誰かを救えば、別の誰かが泣く。何かを守れば、何かを捨てる。政治とは、きれいな理想を掲げる仕事ではない。泥の中で、なお一番ましな道を選び続ける仕事だ。
そして今、私はその泥の中で、長年の戦友に引導を渡している。
発端は、与党議員による政治資金の裏金疑惑だった。
連日の報道、第三者委員会、秘書の逮捕、現職議員への捜査。火の手は党内最大級の権力者である権藤清十郎にまで迫っている。このままでは党が沈む。政権が沈む。政治が止まる。
だから、権藤を切る。それが、私の判断だった。
「俺を斬るか、扇」
権藤は静かに言った。
「斬りたくはありません」
「だが、斬るしかない……か」
「はい」
座敷の隅に控えていた権藤派の議員たちが、息を呑む気配がした。
誰も口を挟まない。ここで余計な言葉を発すれば、それだけで政治生命に関わる。彼らもその程度の嗅覚は持っている。
「権藤さんが退けば、党はまだ持ち直せます」
「俺が退かねば?」
「総選挙で大敗します」
「率直だな」
「権藤さん相手に飾っても仕方がありません」
権藤はしばらく私を見つめていた。やがて、深く息を吐く。
「俺はな、扇。お前が嫌いだった」
「存じています」
「だが、認めていた」
「光栄です」
「お前は綺麗事を言わなかった。だから信用できた」
その言葉は、妙に胸に残った。私は綺麗な政治家ではない。清廉潔白でもない。だが、国を売ったことはない。それだけは、死んでも譲れない。
「……お前がそう言うなら、もう後悔はない」
権藤は、穏やかに笑った。その顔は敗者のものではなかった。一つの時代を生き切った男の顔だった。
「扇。あとは任せた」
私は深く頭を下げた。
「長年、本当にご苦労様でした」
その瞬間、政界にそびえていた一本の巨木が、静かにその役目を終えた。
誰も拍手などしない。誰も泣かない。だが、座敷にいた全員が理解していた。今、一つの時代が終わったのだと。
◇
――その日の朝。
永田町にある私の事務所は、朝から慌ただしかった。
テレビではどの局も裏金問題一色。党本部前には報道陣が列をなし、与党議員が姿を見せるたびに無数のカメラが向けられている。新聞各紙も同じだった。『裏金問題 政権最大の危機』『現職議員を立件へ』『総選挙なら与党過半数割れ』――景気のいい見出しが並んでいる。もっとも、記者という生き物は国が滅びるより、記事が売れる方が嬉しいらしい。
私は新聞を机へ置いた。
「先生」
第一秘書の高坂が静かに入室する。
「本日の予定です。午前は党執行部との会議。その後、新進気鋭党との事前調整。夜は権藤先生とのご会談になります」
「ああ」
簡潔に答える。予定など頭に入っている。問題は、その全てが予定通り進む保証などどこにもないことだ。今回の政局は、一手間違えれば政権が吹き飛ぶ。だからこそ慎重に、一つずつ盤面を整えなければならない。
「総理の様子は」
「かなりお疲れです」
「そうか」
思わず苦笑が漏れた。
現総理・大江田洋。私の派閥から送り出した男だ。誠実で真面目、決して能力が低い人間ではない。だが、今回ばかりは荷が重かった。毎日の記者会見、終わりの見えない追及、党内からの突き上げ、そして世論。誰が総理でも苦しい局面だった。ネット界隈じゃ「無能眼鏡」とか不名誉な二つ名をつけられている。
総理の苦悩にかつての自分を重ね、一瞬、高坂の話を聞き逃していた。
「先生は、お会いになりますか」
「誰に」
「柊教授です」
また、その名前だった。私は椅子にもたれ、天井を見上げる。ここ数日、何度も面会を求められている考古学界の権威だ。数か月前まで生死をさまよっていた人物でもあるのだが、退院した途端、私との面会を執拗に希望してきた。しかも、その理由が妙だった。
「『レオナルド・グレリオ』という人物について、お話ししたいそうです」
聞いたこともない名前だった。どこかの国の政治家だろうか、それとも歴史上の人物か。考古学者が現職の外務大臣へ会いに来る理由など、いくら考えても思い当たらない。
「断ってくれ」
「ですが先生、これで六度目です」
「七度でも同じだ。今は政治が優先だ」
それだけ告げて、私は席を立った。高坂もそれ以上は何も言わなかった。私が一度優先順位を決めれば覆らないことを知っている。
党本部へ向かう廊下を歩く途中、若い議員たちが私を見つけ、一斉に立ち上がって「お疲れ様です!」と頭を下げた。元気だけはある。三十年前の私もあんな顔をしていただろうか。いや、もっと生意気だったかもしれない。
「先生」
高坂が歩調を合わせながら口を開く。
「米林代表から回答がありました。権藤先生が身を引かれるなら、本格的に連立協議へ入るとのことです」
私は小さく頷いた。
米林卓也。私の事務所で政治を学び、独立して新党を立ち上げた男だ。
政界ではまだ四十代半ばと若い。それでも、政治家としての嗅覚は鋭い。今回の選挙で最も議席を伸ばすのは、間違いなく彼の党だろう。
だからこそ、権藤には退いてもらわなければならない。
情では国は守れない。政治家は、時に情を捨てる覚悟が要る。その非情な役目を引き受けるのが、今日の私だった。
私は歩みを止めることなく、小さく呟く。
「……まったく、八十にもなった老人に、まだこんな役目を背負わせるとはな」
高坂が苦笑した。
「先生しかいませんから」
「買いかぶるな。国は一人で動くものじゃない。優秀な部下と、優秀な敵がいて初めて動くんだ」
そう言って私は笑った。その言葉は、本心だった。
権藤清十郎も、米林卓也も。私という政治家をここまで育ててくれた、最高の戦友であり好敵手なのだから。
◇
料亭を出ると、夜風が頬を撫でた。昼間の蒸し暑さは消え、都心の空気には秋の気配が混じり始めている。
黒塗りの車へ乗り込むと、運転手が静かに車を発車させた。窓の外では、眠ることを知らない街が流れていく。ネオン、高層ビル、赤く尾を引くテールランプ。
私はその景色を眺めながら、小さく息を吐いた。
「権藤さんは、今夜中に辞職届を提出されるでしょう」
助手席の高坂が静かに振り返る。
「総理へは私から連絡しておきます」
「ああ。だが正式に受理されるまでは油断するな」
「承知しました」
高坂はすぐに携帯電話を取り出す。大江田総理一人の器量でどうにかなる段階は、とっくに過ぎている。だからこそ、私が裏で糸を引かねばならなかった。
権藤が退く。新進気鋭党との連立が動く。過半数を維持できれば、政権はまだ立て直せる。最悪の未来だけは避けられる。
ようやく、一つ山を越えた。
そう思った、その瞬間だった。
胸の奥が、小さく疼いた。
「……?」
違和感だった。ほんの一瞬。疲労だろうと思った。八十歳だ、一日中動き回れば胸の一つや二つ痛むこともある。
だが、次の瞬間だった。
胸骨の裏側を、巨大な杭で貫かれたような激痛が走る。
「――っ!」
息が止まる。肺が空気を完全に拒絶した。反射的に胸を強く押さえる。全身から一気に冷たい汗が噴き出した。異様なほど冷たい。呼吸が浅くなり、視界の端がゆっくりと白く霞み始めた。
「先生!?」
高坂が慌てて振り返る。運転手もルームミラー越しに私を見た。
「病院へ!」
「……待て」
私は右手を上げた。呼吸が苦しい。それでも思考だけは、妙なほど冷徹に冴え渡っていた。
心筋梗塞。おそらく間違いない。政治家になってから何人もの友人をこの病で失った。症状は嫌というほど知っている。ここで私が倒れたと知られれば、政局に余計なノイズが走り、権藤の派閥が息を吹き返しかねない。
「先生! 救急車を!」
「……その前に、総理へ繋げろ」
「ですが」
「早くしろ!」
高坂は震える指で電話をかけ始めた。私は必死に意識の灯を繋ぎ止める。まだ倒れるわけにはいかない。権藤の辞職届が正式に受理される、その一瞬を確認するまでは。
電話が繋がる。
「先生、総理です」
私は携帯電話を受け取る。
「……大江田」
自分でも驚くほど声が掠れていた。
『扇先生!? どうされたのですか、その声――』
「権藤さんは……退く。今夜中に辞職届が届いたら……迷うな。すぐ受理しろ。迷うな!」
『は、はい!』
「それまで……私のことは……絶対に外へ漏らすな」
一瞬の沈黙。電話越しに総理が何かを叫んでいる。だが、もう何も聞こえない。私は携帯電話を高坂の手に落とした。
「……先生! 病院へ向かいます!」
運転手が急ハンドルを切る。車は信号を縫うように、夜の街を病院へと急いだ。
胸が痛い。呼吸ができない。指先の感覚が完全に消えていく。
それでも、不思議と恐怖はなかった。やるべきことはすべて終えた。政治家としての責務は、最期の瞬間まで果たした。
あとは若い世代が、この国を前へ進めてくれるだろう。
米林。大江田。……頼んだぞ。
最後に思い浮かんだのは、自分の家族でも、これまでの人生の栄光でもなかった。この国の未来だった。それが政治家・扇源次郎という人間の、すべてだった。
視界がゆっくりと、真っ白に染まってゆく。
車の振動も。高坂の叫び声も。すべてが遥か彼方へと遠ざかっていく。
意識が闇へ沈み、世界が白く反転した。
その刹那――。
私はもう一度、目を開けた。




