目覚め
目を開けた瞬間、眩しい光が視界を覆った。
反射的に目を細める。
蛍光灯のような白く冷たい光ではない。薄いリネンのカーテンを透かして差し込む、柔らかな陽光だった。
やがて目が慣れ、ぼやけていた視界がゆっくりと焦点を結び始める。
私はてっきり、病院のベッドで目覚めたのだと思った。
だが、すぐに猛烈な違和感が湧き上がってきた。
静かすぎる空気。耳障りな医療機器の電子音も、鼻を突く消毒液の匂いもしない。代わりに肺を満たしたのは、どこか懐かしく、重厚な木の香りだった。
ゆっくりと視線を巡らせる。
天井は木目が浮き出た濃い色合いの板張りで、太い梁がむき出しになっていた。その一部には、花や鳥をかたどった繊細な彫刻すら施されている。まるで中世ヨーロッパの城館のような風情だ。
手を動かそうとした。
動かない――いや、動く。だが、思うように制御できない。
違和感の正体を突き止めるべく、目の前に掲げた己の「手」を見て、私は硬直した。
妙に、小さい。
指は短く、掌はしっとりとして柔らかく、丸みを帯びている。シワひとつない、大人のそれとは根本的に異なる、無垢な質量。
――これは、赤子の手だ。
私は理解を拒絶した。
だが、思考を立て直しても現実は変わらない。
背中に感じる布も、少しざらついてはいるが、小さな身体を優しく包み込んでいる。
いや、そんな馬鹿な。
私は確かに――八十年を生き、半世紀にわたって日本政界の修羅場を渡り歩き、内閣総理大臣まで務めた男、扇源次郎だ。
その私が、なぜこんな――。
思考が混乱に塗り潰されそうになった瞬間、視界に動く影が滑り込んできた。
黒いドレスに、清潔な白いエプロン。首元には丁寧なレースの飾り。
栗色の髪を後ろに束ねた、ブロンズの瞳の若い女性だった。モデルのような華やかさはない。だが、落ち着いた柔らかな雰囲気をまとった美人だった。
――これは「メイド」か?
現代日本で見かけるコスプレのメイドとは違う。
古風で上品な衣装に身を包んだ彼女は、私の顔を見て穏やかな微笑をたたえた。こちらを覗き込むそのブロンズの瞳には、まるで赤ん坊をあやすような、深い慈愛が宿っている。
しかし、彼女の口から漏れた言葉は私の知る言語ではなかった。
「――■■■■■■、■■■?」
落ち着く声色、耳に心地よい響き。だが、意味はまったく分からなかった。
日本語ではない。英語でもない。少なくとも、私がこれまで耳にしたどの言語とも一致しない。
声にしてこの状況の疑問を彼女に問おうと口を開いた。だが、口から出たのは「あー」「うー」といった、締まりのない母音だけだった。
赤子らしい頼りない発声だった。理解しようと焦るほど、圧倒的な無力感が全身を支配していく。
彼女は私に顔を寄せると、私の頬についた衣服の毛玉をやさしくつまんで取り除き、そのプニプニとした不格好な頬を人差し指で愛おしそうに撫でた。
その指の感触はどこまでも柔らかく、丁寧で、本物の愛情がこもっていた。
されるがままになりながら、私は必死に視線だけで周囲の状況を分析する。
目に映るのは、重厚な木製家具。銀細工の水差し。素朴な陶器のコップ。
そして壁に飾られたタペストリーには、大きな鳥が両翼を広げた紋章らしき文様が、金糸で精緻に織り込まれている。
すべてが使い込まれていながら上品で、明らかに、一定以上の権威ある家庭の調度品だった。
ここは――いったいどこなんだ。
答えはもちろん返ってこない。
脳裏に、人生の「最後」の記憶が蘇る。
与党内のスキャンダル、尊敬していたライバルへの冷徹な引退勧告、他党の党首との裏交渉。その激務の果て、帰路につく車の中で、私は心筋梗塞と思われる激しい胸の痛みに襲われ、意識を失った。
普通に考えれば、これは死の間際に見る夢なのだろう。
しかし、この肌に触れるシーツの感触が。木の匂いが。空気の湿度が。
すべてが、あまりにリアルで、鮮明すぎる。
この世界は、確かに「現実」として、今ここにある。
理解が追いつかない。だが今の私には、それを確かめる術も、この部屋から這い出る脚もない。
ならば、やるべきことはひとつだ。
――観察だ。
前世でどれほど過酷な政局にあろうとも、私はまず現状を分析することから道を切り開いてきた。
何が起きたのかを考えるのは、それからでいい。
まずは、この場所について少しでも情報を集める。
小さな手を握り締め、そう決意した瞬間、未熟な肉体が限界を迎えたかのように、強烈な眠気が脳を支配した。
抗うこともできず、私は再び、深い意識の闇へと落ちていった。
-----人物紹介-----
扇 源次郎
八十歳。政治家
衆議院議員として長年政界の第一線で活動し、複数の主要閣僚を歴任したのち、内閣総理大臣を務めた
総理退任後も政界を引退することなく、与党最大派閥の領袖として大きな影響力を持ち続け、現内閣では外務大臣を務めている
内閣総理、防衛、財務、経済産業、外務、国土交通など大臣を歴任し、内政・外交・安全保障のいずれにも豊富な経験を持つ
清濁併せ呑む現実主義者であり、半世紀に及ぶ政治家人生の中で数多くの政争を勝ち抜いてきた
一方で、政治に人生の大半を費やしてきたため、家庭人としては決して良き夫、良き父親だったとは言えない




