招かれざる少年Ⅰ
この「招かれざる少年」は試験的に三分割して投稿します
Ⅱは21:30
Ⅲは23:30
投降予定になります
春の柔らかな日差しが、芽吹き始めた痩せた麦畑を穏やかに照らしていた。
わし――ジェスキンは、土手の上に立ち、腰に手を当てて小さく息を吐き出した。今年で五十八になる。すっかり頭頂部は地肌を晒し、側頭部にわずかに残った髪も霜が降りたように白い。膝や腰の節々が春先の冷え込みで疼くたび、己が重ねてきた年月の重さを嫌でも実感させられる。
そこに広がるのは、わしが生まれ育ち、長年守り続けてきたウェルマ村の風景だ。リオネル城砦と国境関所砦の中間、そこから街道を西へ少し外れた場所に位置する、人口三百人ほどの中規模な村である。
アルビオン島は年間を通して雨が多く、この地にもあちこちに湿地帯が広がっている。この村にも北の山裾から引かれた川が静かに流れており、水に困ることだけはまずない。山岳が迫る北の王国あたりと比べれば、このあたりは比較的平坦な地形が続いており、豊かな水があっても川が暴れて氾濫を起こすような大水害は滅多に起きなかった。
だが――水に恵まれているからといって、土地まで肥沃かといえば、決してそうではない。足元にあるのは、どこか白っぽく砂利の混ざった土壌だ。
それでも、村の住人のほとんどを占める農民たちは、文句も言わずに鍬を振るっている。深く耕し、石を拾い、代々受け継いできた勘と手作業で、麦や豆、雑穀を泥臭く育てていた。
村の東側、林を抜けた先にある小規模な鉱山からは細々と鉄鉱石が掘り出されており、そこで働く坑夫たちの粗末な長屋も数軒並んでいる。鉄の採掘に関わる者たちと、土に生きる農民たち。それがこの村のありふれた営みだった。
「おーい、精が出るな、ゴンザ!」
畑の向こうへ声をかけると、一段と大柄な影がのっそりと太い腕を上げた。
四十代半ばの熊人族――農奴の古作長を務めるゴンザだ。
この村の人口は、半数以上が人族だが、三割以上は獣人が占めている。そして人族と獣人を合わせ、村人の四割ほどは領主様やわしの荘園で働く農奴の身分だ。
ゴンザはその農奴たちを束ね、わしの荘園の農作業を現場で差配してくれている頼もしい男だった。熊人族特有の分厚い胸板と剛毛に覆われた太い腕は、二頭立ての牛にも引けを取らぬ力強さで重い鋤を扱い、今日も黙々と痩せた土を掘り返している。
普段から滅多に口を開かず、言葉数は極端に少ない男だが、その胸のうちは驚くほど温かく優しい。誰かが重い荷に難儀していれば言われる前に手を貸し、他人の畑であっても人手が足りないと見れば、己の作業を終えた後に黙って手伝いに向かうような気性の持ち主だ。人族も獣人も、農奴も自由民も関係なく、村の誰もがこの寡黙な大男に信頼を寄せていた。
(……ありがたいことだ)
わしは胸の内で、静かにリューリア神へ祈りを捧げた。
決して楽な暮らしではない。贅沢などできるはずもない。今夜の夕餉だって、妻が得意料理として鍋いっぱいに煮込んでくれる、いつもの塩味の芋のスープくらいのものだ。
だが、それでも飢えで倒れる者はここ数年出ていない。
わしには四人の子供がいた。
二人の娘はとうの昔に隣村へ嫁ぎ、今も元気に暮らしている。
だが――二人の息子は、いずれも十数年前に兵役として召集され、二度とこの村へ戻ることはなかった。
息子たちを失った哀しみが、この胸から消える日はない。軍役を課す城砦のあり方に、言いたいことが何一つないと言えば嘘になる。
だが、その徴兵令を出したのは先代の頃の話だ。
いまリオネル城砦の主であるアントニウス男爵様は、武門の誇りを重んじながらも、決して領民から無理な搾取はなさらない。過酷な増税で首を絞めることもなく、国境の警備に目を光らせ、わしらのような片田舎の民がこうして平穏に土を耕せるよう守ってくださっている。
貧しくはあっても、日々の暮らしに大きな波風は立たず、飢え死にもせず、季節の巡りとともに皆が助け合って土に生きている。
この素朴で穏やかな村の営みを、わしは心から愛していた。
村長として、これ以上の何を望むというのだろう。今のウェルマ村は、十分に平穏を満喫し、満ち足りているのだ。
◇
妻が作ってくれた塩味の芋のスープで腹を満たし、質素な夕餉を終えた後。
わしは母屋の奥にある手狭な執務室へ戻り、机の上の獣脂蝋燭に火を灯した。
壁際には、長年この村の年貢の出納や人別を記してきた羊皮紙の束が雑然と並んでいる。部屋の中央には、使い込まれて角の丸くなったトネリコ材の机。その向かい側に、熊人族の古作長ゴンザが静かに直立していた。
天井梁に頭が届きそうな巨体は、薄暗い部屋の中でまるで岩山のような影を落としている。
「……座れ、ゴンザ」
「……いや。立ったままでいい」
低く擦れた声で短く返し、ゴンザは丸太のような太い腕を胸の前で組んだ。
作業着には、今日一日土を掘り返していた腐葉土の匂いがまだ微かに残っている。
わしは机の引き出しから、昼間に城砦から早馬が届けてきた一通の書状を取り出した。
男爵家の封蝋が赤々と押された、上等な羊皮紙。それを広げ、ため息混じりに視線を落とす。
「昼間、リオネル城砦から使いが来た。……領主様からの正式な通達だ」
ゴンザはピクリとも動かず、ただ濁りのない黒い瞳でわしの手元を見つめている。
「グレリオ男爵家の三男、レオナルド様。……今年で七歳になられたあのお方を、『執政官見習い』としてウェルマ村を実習先とする、とのことだ。あと数日で着任される。期間はおよそ三年だ」
「……執政官、見習い」
ゴンザはその言葉を口の中で反芻するように呟いた。
貴族の若君が、将来の領地経営を学ぶために直轄の村へ赴任し、政務の基礎を学ぶ制度――その存在自体は、この男も知っているはずだ。もっともウェルマ村がその任地に選ばれたことなど、わしの記憶にある限り一度もない。
だが、ゴンザの表情には動揺も困惑も見られなかった。
「若君がお見えになるなら、屋敷の掃除でも手配するか」とでも言いたげな、至って淡々とした面持ちだ。この男にとって、領主の御子息が来ようと、明日の朝になれば鍬を持って土を耕す日課に何ら変わりはないのだろう。
そんな相棒の無頓着さに、わしは苦い顔で首を振った。
「ゴンザ、ただの若君のお出ましなら、わしだってここまで頭を抱えやせん。……問題は、来られるのが『三男様』だということだ」
「……三男様が、どうかしたのか」
「知らんのか? 城砦の近辺や行商人の間じゃ、とっくに有名な話だぞ」
わしは声を落とし、部屋の外を窺うように身を乗り出した。
「お生まれになって間もない頃から、一切の泣き声を上げなかったそうだ。感情を表に出さず、ただ大人のような冷え切った目で周囲を見つめ返す、気味の悪い赤ん坊だったと。……城下じゃ『泣かずの子』『悪魔憑き』と、まことしやかに囁かれておった、いわくつきの少年だ」
「悪魔憑き……」
ゴンザがわずかに眉を寄せた。
迷信深い農民たちにとって、それは最も忌み嫌われる言葉の一つだ。教会が清めの儀式を行ったとも聞くが、火のない所に煙は立たぬ。
「得体の知れぬ噂のある若君だ。貴族の気まぐれで畑をいじくり回されたり、おかしな指図を出されたりしてみろ。長年守ってきた村の平穏が、一瞬で引っ掻き回されちまう」
ようやくここまで守ってきた村だ。余計な波風など、これっぽっちも立ててほしくはない。
「ゴンザ。お前は農奴たちのまとめ役だ。畑の連中にも、若君の機嫌を損ねるような無礼は絶対にさせんよう、きつく言い含めておいてくれ。……何を言われても決して逆らわず、はいはいと頭を下げて、適当にお相手をして差し上げるんだ。余計なことは一切せず、三年のお勤めが無事に終わるのをじっと待つ。よいな?」
わしの念押しに、ゴンザは静かに顎を引いた。
「……分かった。村長がそう言うなら、皆にもそう伝える」
飾り気のない、しかし約束は違えない男の確かな返答。
それだけを聞くと、大男はのっそりと踵を返し、音もなく執務室を去っていった。
一人残された部屋で、わしは机の上の書状を見つめ直し、重い息を吐き出した。揺れる蝋燭の灯火が、影を薄暗く揺らしている。
(どうか……何事も起きず、平穏なまま過ぎ去ってくれますように……)
ただ村の平穏を守りたいという老村長の願いは、胸の中で祈りとなって夜の静寂へと溶けていった。




