教育
森でのボアとの一件から、数日が過ぎていた。
窓の外では木々の葉が赤茶色に染まりはじめ、秋の澄んだ風が枝先を揺らしている。
マナーハウスの二階にある学習室の空いた窓から斜光が室内に差し込んでいた。
机の上に広げた羊皮紙から視線を上げ、私は小さく息を吐いた。
あの日以来、身体の奥に残っていたあの不可思議な脱力感はすっかり抜け、六歳の肉体は再び軽さを取り戻している。
(……マナの消費による一時的な疲労、か。休息と食事で完全に元に戻ったな)
自分の小さな手のひらを開閉させ、指先の感覚を確かめる。
反復練習で再現性を高められるか試してみたいところだが、室内で無暗にマナを弄ぶわけにもいかない。まずは日々の鍛錬と座学をこなしながら、機を窺うのが得策だろう。
そう思考を整理していた、ちょうどその時だった。
コン、コン、と控えめなノックの音が扉を叩いた。
「レオナルド様、従士のジェロットでございます。入室してもよろしいでしょうか」
「どうぞ、入ってください」
返事をすると、重い木製の扉が静かに開き、一人の男が入ってきた。
茶髪をマッシュルームカットにした、小太りでやや背の低い体躯。麻のチュニックを着たその男は、二十歳になる男爵家の従士ジェロットだ。
剣の腕前はお世辞にも伸びているとは言えず、本人も早くから前線で戦う騎士の道を諦めていた。だがその代わり、彼はデスクワークにおいて非凡な才を見せており、現在は帳簿付けや物資管理といった後方支援の道へ進むべく模索している。
そして昨年の冬からは、パウロとともにこの学習室で私の座学に付き合い、机を並べて教えを受けている「生徒」の一人でもあった。
部屋に入ると、ジェロットは丸っこい身体の背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「お忙しいところ恐縮にございます、レオナルド様」
「構いませんよ、ジェロット。……ところで、奥方は息災ですか?」
机の上の羊皮紙を片付けながら尋ねると、ジェロットは一瞬きょとんと目を丸くした。
だが、すぐにその親しみやすい丸顔をわずかに赤らめ、照れくさそうにはにかむような笑みを浮かべた。
「は、はっ……! もったいなきお言葉にございます。今年の春に娶りました妻のフローラですが……実は先日、腹に新しい命を宿していることが判明いたしました」
「おお、それは本当かい!」
私は思わず身を乗り出し、心からの笑みをこぼした。
妻のフローラといえば、今年十八歳になったあの赤髪のメイドだ。私が赤ん坊の頃から甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれていたあの愛嬌のある少女が、ついに母になるのか。
「それは本当にめでたいことだ。体調は崩していませんか? これから寒くなる季節だから、温かいものをしっかり摂るよう彼女に伝えておくれ」
「ありがたき幸せにございます……! 妻も、レオナルド様からの温かいお言葉を聞けば、何よりの励みとなりましょう!」
恐縮しきりのジェロットの表情には、主家に対する誇りと忠誠の色が濃く滲んでいた。
そんな和やかな空気が満ちた学習室の扉が、再び外から小さくノックされた。
「レオナルド様、パウロでございます。オズモを伴い、参上いたしました」
「パウロか。入ってくれ」
開かれた扉から入ってきたのは、私の教育係である騎士パウロ。そしてその背後には、彼によく似た面立ちの少年が緊張した面持ちで付き従っていた。
パウロの三男、今年八歳になったオズモだ。
上に二人の兄、下に二人の弟がいる五人兄弟の真ん中で、乳母ロザリンダ譲りの柔らかな栗色の髪と、ブロンズの瞳を持っている。
上の兄たちと同じく騎士を目指して訓練に励んでいるオズモだが、パウロ自身が「上の二人よりも物覚えが早く聡い」と見込み、私の教えを受けさせたいと頼み込んできたのだ。
「失礼いたします」
パウロが腰の長剣を押さえながら見事な礼を取ると、オズモも父の所作を真似るように、小さな身体を折り曲げて深々と一礼した。
「ちょうどいいところに来てくれました、パウロ。先ほどジェロットから聞いたのですが、フローラが懐妊したそうですよ」
私が朗らかな声でそう告げると、パウロは驚きに眉を跳ね上げ、すぐさま相好を崩した。
「おお! ジェロット、本当か! それは誠にめでたい!」
パウロが逞しい手でジェロットの肩を力強く叩くと、背後に控えていたオズモも、顔をほころばせて小さく頭を下げた。
「お、おめでとうございます、ジェロット様!」
「ありがとう、オズモ君。……パウロ様、ありがとうございます」
武骨な男たちの間に、温かな祝福の声が広がる。 厳しい国境の現実をしばし忘れさせるような、穏やかで幸福な光景。
(人が生まれ、家が繋がり、領地が営まれていく……)
新しい命の誕生を純粋に喜び合う彼らの姿を見つめながら、私は胸の奥にじんわりと広がる温もりを、静かに噛み締めていた。
騎士パウロ、事務方として光るものを持つ従士ジェロット、そして将来有望な若きオズモ。
三人に増えたこの奇妙な「教室」の面々を見渡しながら、私は彼らがきっとこの領地に必要な人材になると確信した。
◇
学習室の空気は引き締まった学びの場へと戻っていた。
窓から注ぐ斜陽はなくなり燭台に火が灯った室内の机の端では、八歳のオズモが石板にチョークを走らせ、私が課した算術に黙々と取り組んでいた。額に微かな汗を浮かべながらも、そのブロンズの瞳は真剣そのもので、計算の手を休めようとはしない。
私は手元の羊皮紙を軽く整えると、机の前に控えている二人の大人――騎士パウロと従士ジェロットへ、静かに視線を向けた。
「さて、パウロ。……軍において、最も重要なことは何だと思いますか?」
私の問いかけに、パウロは武人らしく顎に手を当て、深く思案を巡らせた。
教育係であり実戦経験を持つ騎士である彼は、実戦の光景を脳裏に描き出しているのだろう。しばらくして、真面目な面持ちで口を開いた。
「……日頃の過酷な鍛錬による個々の武芸、そして規律にございますかな。あるいは、いかなる乱戦にあっても動じず、兵を叱咤激励して局面を打開できる『優秀な指揮官』の存在かと存じます。いかに数が揃おうと、腰の引けた兵や凡庸な指揮官では烏合の衆に過ぎませぬ」
いかにも中世の現場を生きる騎士らしい、武勇と士気を重んじる模範的な回答だ。
私は否定も肯定もせず、薄く笑みを浮かべたまま、今度はその隣で控える丸顔の従士へ目を向けた。
「では、ジェロット。君はどう考えますか?」
指名されたジェロットは、一瞬背筋をびくりと震わせた。小太りな身体を縮こまらせ、マッシュルームカットの頭をポリポリと掻きながら、必死に思考の糸を手繰り寄せる。
騎士としての武芸には見切りをつけ、後方支援と実務の道を模索している彼だ。パウロの顔を伺いながら、恐る恐る、だが自らの領分から出た率直な言葉を絞り出した。
「え、あ……パウロ様のおっしゃることも、誠にごもっともでございますが……。私のような物資の出納を預かる身からいたしますと、その……『補給』ではないかと存じます。いくら腕の立つ兵や立派な指揮官がいようとも、腹が減っては槍も振るえず、矢が尽きれば弓兵もただの案山子でございますから……」
パウロが「ふむ……」と、己の回答との違いに小さく唸った。
私は満足のいく笑みを深め、大きく頷いてみせた。
「良い着眼点です、ジェロット。実によく見えている」
「あ、ありがとうございます……!」
褒められると思っていなかったのか、ジェロットは目を丸くして恐縮した。
そのやり取りに興味を引かれたのか、カリカリと石板を擦っていたオズモの手がふと止まり、幼い耳をこちらへそばだてているのが視界の端に映る。
「パウロの言う武芸や統率力も、戦術レベル――目の前の戦闘においては極めて重要です。ですが、戦略という巨視的な視点に立った時、軍の勝敗を大きく左右するのが『兵站』です」
「へいたん……でございますか?」
耳慣れない言葉に、パウロが鸚鵡返しに問い返してくる。
私は立ち上がり、壁に掛けられた簡素な領地地図を指し示した。
「人間は飯を食わねば戦い続けられません。馬も同じです。兵が千人いれば、一日に必要な穀物はどれほどになる? 一人の兵が自分で運べる食糧には限りがある。それが千人、二千人となればどうでしょう。遠征が十日、一月と続けば、兵自身に持たせるだけでは到底足りない。 敵と対峙し続けるためには、後方から絶え間なく食糧や矢、替えの馬具を送り、水を確保し続けなければならないのです」
前世の歴史でも、戦いは兵同士がぶつかる前から始まっている。兵站を軽んじた軍は、どれほど精強でも長くは戦えない、英雄の武勇も、盤石な補給線という土台があって初めて最大限に生きる。
「どれほど精鋭の騎士団であっても、補給を断たれ兵糧が尽きれば、いずれ飢えと疲労で戦える状態ではなくなる。……戦いとは、敵の兵を斬る前に、まず自軍の胃袋を満たし続ける勝負なんだ」
私の淡々とした言葉に、パウロは息を呑んだ。
「武門の誇り」や「個の武勇」という今までの概念の足元を、巨大な現実でごっそりとすくい取られたような衝撃を受けている。
ジェロットはといえば、自らが日頃行っている地味な物資管理や計算作業が、実は軍の命脈そのものを握っているのだと知らされ、顔を紅潮させて私の言葉を一言一句漏らすまいと前のめりになっていた。
オズモも完全に算術のチョークを置き、椅子の上に居住まいを正して、私の口から紡がれる異質な講義に惹き込まれている。
「だからこそ、軍を動かすためにはまず『道路』を整備し、荷車を効率的に走らせ、港の荷役を滞りなく回す仕組みが要る。……ジェロット、君が学んでいる帳簿の出納や算術も、剣や槍とは別の形で、何千人もの兵の命を支え、勝敗を左右する技術なんだ」
「は、はいっ……! 胸に刻みます、レオナルド様……!」
ジェロットは感極まったように拳を握りしめ、パウロは己の至らなさを噛み締めるように深く頭を垂れた。
「パウロのような優秀な騎士があってこその兵站だ。食べ物を用意すれば戦いに勝てるわけじゃないってことも忘れないで」
オズモも、ジェロットも、パウロも、もう誰一人として私から目を逸らしてはいなかった。
(よし……まずはこの三人に、私の考え方を共有していこう)
私は壁の地図から振り返り、もう一つ、この世界にはまだ馴染みの薄い考え方について話を続けた。
◇
学習室の空気は部屋に差し込んでいた太陽光の熱以上に暖かく感じられた。
机の上でチョークを走らせていたオズモの手が止まり、鍛え抜かれた武人であるはずのパウロ様すら、ただ圧倒されて唇を結んでいる。
――兵站。
その言葉が、私の中で何度も反響していた。
これまで日陰の仕事だと思っていた帳簿と物資管理。それを若君は、軍を支える命脈だと言った。
(……この御方は、一体何者なのだ)
背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。
今年の春に妻となったフローラが、かつて部屋でぽつりと漏らしていた言葉が鮮明に脳裏をよぎっていた。
『ねえ、ジェロット。レオナルド様って……本当に子供なのかしら』
赤ん坊のころから世話をしていた彼女は、時に怯えるように言っていたのだ。泣かずの子、悪魔憑きと忌避されていた幼少期。その瞳に見つめられると、まるで賢者に見透かされているような気がする、と。
あの時は妻の怯えを笑い飛ばした。だが、今なら断言できる。
こんな子供が、この世にいようはずがない。
得体の知れぬ恐怖、常軌を逸した異常性。
――だが、それ以上に。 私にとって、この少年の放つ言葉は、抗いようもなく魅力的であった。
若君の語る軍制には、美名も武勇の誇示もなかった。そこにあるのは、ただ冷徹なまでに「秩序を仕組みへ落とし込んだ合理性」そのものだった。
吟遊詩人が歌うような、天才的な指揮官が策を弄して大軍を打ち破る英雄譚ではない。
百人の兵が十日戦うために必要な穀物の樽数を割り出し、馬の飼料を計算し、水路と街道を敷いて、何が起きようとも補給線を維持し続ける。
勝つべくして、当たり前に勝つ。
(これだ……。私が、ずっと求めていた答えは……!)
騎士としての剣技は伸び悩み、同年代の仲間が前線で手柄を立てる中、私は己の非力さに絶望していた。小太りで背の低い体躯。長剣を振るえば息が上がり、模擬戦ではいつも泥を舐めさせられた。
逃げ込むようにして始めた帳簿付けや物資の出納管理だったが、武門の家にあってそれは常に「日陰者の仕事」と見なされていたのだ。「剣も握れぬ落ちこぼれの後方支援」と、どこかで自分自身すら卑下していた。
だが、レオナルド様は違った。
私が日頃行っていた地味な帳簿の数字こそが、何千もの兵の命脈を握り、戦争の勝敗を根底から決定づけるのだと、論理の刃をもって証明して見せたのだ。
自分が手探りで求めていた答えを、この若君はすでに知っている。
若君の澄んだ声は、さらに深い領域へと踏み込んでいた。
「パウロのような優れた指揮官が、前線で百パーセントの武威を振るうためにはね。戦局のすべてを一人で背負わせてはならないんだ。……軍には、前線の武勇を背後から支え、冷静に盤面を組み立てる『参謀』という役割が必要になる」
参謀――。
その新たな言葉に、私の心臓が激しく跳ね上がった。
「戦地となる土地の詳細な地形や起伏を歩いて調べ、季節風や雨の時期を予測する。敵の兵力と布陣を緻密に分析し、味方が決して『負けない』ための最適な部隊編成を組む。そして、前線に立つ兵たちが一歩も退かずに戦えるよう、十分な武器、矢、食糧を、寸分の狂いもなく安定して届け続ける役目だ」
前を向いて淡々と説く若君の横顔を見つめながら、私は握りしめた拳を震わせていた。
(……これだ。これこそが、私の目指すべき場所だ)
全身の血が、熱く沸騰していくのを感じていた。 私には、敵陣を切り裂く剛腕も、戦場を駆ける勇猛さもない。
だが――地図を広げ、地形と天候を読み解くことならできる。
羊皮紙に数字を走らせ、兵糧の消費速度を割り出し、補給の荷車を正確に手配することならできる。
前線の英雄たちが泥を啜らずに済むよう、背後で完璧な「勝つための仕組み」を組み上げることなら、この命を賭けてやり抜くことができる。
剣を振るえぬ落ちこぼれの従士にも、この軍制の歯車の中で、果たすべき至高の役割があるのだ。
「……ジェロット」
不意に名を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。 若君が、その底知れぬ灰色の瞳をまっすぐにこちらへ向けていた。
「一人の人間がすべてをやる必要はありません。地図を作る者、敵情を調べる者、兵糧を計算する者、それらをまとめて指揮官の判断を助ける者――そういう人間たちが必要なんです」
子供らしい無邪気さを完全に削ぎ落とした、指導者としての光。私の胸の奥に燻る野心も、抱えていた劣等感も、そのすべてを見透かした上で、若君は静かに口元を緩めた。
「君がやっていることは、決して前線の兵の後ろ盾にとどまるものではない。……この領地の『頭脳』になってほしい」
「――ッ!」
喉の奥が熱くなり、声が出なかった。 私は深く、床に額がつくほどに平伏した。
この御方の描く未来を、もっと見てみたい。
そしてその中に、自分の居場所があるのなら――この力を尽くしたい。
私の胸の内に、かつてない覚悟の炎が、静かに、だが決して消えぬ強さで灯っていた。
-----人物紹介-----
ジェロット
人族・20歳
グレリオ男爵家に仕える従士
幼い頃から騎士を目指して武芸の訓練を受けてきたが、才能には恵まれず、現在は帳簿付けや物資管理などの実務を主に担当している
小柄でやや太めの体格
穏やかで人当たりの良い性格をしており、数字や物資の出納を扱う仕事では高い適性を見せる
レオナルドの教育係パウロとともに、学習室で算術や領政について教えを受けている
今年の春、グレリオ男爵家に仕えるメイドのフローラと結婚した




