父の願いⅡ
お茶会の華やいだ余韻から逃れるように、私はお父様の寝室へと向かった。
分厚いオークの扉を押し開けると、むせ返るような暖炉の熱気と共に、鼻を突く強い薬の匂いが押し寄せてくる。
「お父様。お加減はいかがですか」
私がベッドに近づくと、幾重にも重ねられた豪奢な毛布に身を沈めていたお父様が、ゆっくりと目を開けた。三十二歳という年齢には見えないほど痩せ細り、青白い顔をしたお父様。幼い頃、馬上槍試合で勇姿を見せ、私にとって誰よりも大きく見えたその面影は、病魔によって残酷なまでに削り取られている。
「……ベアトリーチェか。お茶会は、どうだった」
「無事に終わりました。レオナルド様も、ボナとよく遊んでくださいましたわ」
私が努めて明るい声で答えると、お父様は少しだけ安心したように細く息を吐き、静かに目を細めた。
「そうか……あの男は、ボナペントゥーラをよく見てくれているな」
お父様は小さく、ひゅっと喉を鳴らして咳き込んだ。私は慌てて白湯の入った杯を口元へ運ぶ。息を整えたお父様は、私の手を力なく握り、ひどく真剣な、しかしどこか深い諦観の混じった声で語り始めた。
「ベアトリーチェ。お前はあのレオナルドを……恐れているな」
「え……」
「無理もない。私も恐ろしい」
お父様は、自嘲するように弱々しく笑った。公国の頂点に立つはずの公爵が、一介の男爵に対して抱く『恐れ』。その言葉の底知れぬ重みに、私は息を呑んだ。
「あれは、我々には測りきれぬ器だ。いずれこのノルテン公国という枠すら、あの男には狭くなる日が来るかもしれない。ボナペントゥーラが公爵を継いだ時……いや、もしかすると、我がルガーノ家はあのレオナルドの下風に立つことになるやもしれん」
それは、誇り高き公爵家当主としての敗北宣言にも等しい言葉だった。お父様はすでに、若き家令の圧倒的な才覚が、いつか自分たちを追い越していく未来をはっきりと悟っているのだ。
「それでもいいのだ。ルガーノが存続するのなら、それがあの子の、この公国の最善となる。だからこそ、ベアトリーチェ……お前には、幸せになってほしい」
「お父様……?」
「家のためだけに、政略の道具として嫁げと言っているのではない。お前自身の幸せを、私は心から願っているのだ」
お父様の震える手が、私の手を強く握り返した。骨張った冷たい手のひらから、切実な思いが伝わってくる。
「そして……あのレオナルドにもだ。あれは、才に恵まれすぎているがゆえに、若くして一人で多くを背負いすぎている。ただの冷たい政治の盤上で周囲から恐れられ、誰かに利用されるだけの人生で終わってほしくないのだ。お前があの男の心を解かし、共に幸せな家庭を築いてくれること。お前があの子を人として幸せにしてやれれば……きっと、ルガーノ家も安泰だ。頼む、あの子の良き『家族』になってやってくれ」
それは、死期を悟った父親としての切実な願いだった。
だが。私を握るその手の恐ろしいほどの冷たさと、命の灯火が消えかけようとしている衰弱しきった姿を前にして、私の心は氷に貫かれるような感覚にとらわれる。
(……ああ。お父様は、これほどまでにあの男を恐れていらっしゃるのだ)
ルガーノ家がレオナルドの下に下るかもしれないという、公爵としての恐怖。彼を『人として幸せにできれば』家は安泰だという、すがるような願い。
公爵の娘として生きてきた私の心は、その震える言葉の奥にある最も重い『真意』を読み取ってしまっていた。
(私が、彼を繋ぎ止めなければならないのだ。お父様の代わりに、私が)
私がレオナルドを愛し、彼に愛され、彼に『幸せな家庭』という安らぎを与え続けなければ。あの底知れぬ怪物は、いつかルガーノ家を……最愛の弟であるボナペントゥーラを、完全に呑み込んでしまうかもしれない。
お父様は最後の力を振り絞って、私に『ルガーノ家の命運』という最も重い鎖を託そうとしているのだ。
「……はい、お父様」
私は、溢れそうになる涙を必死に堪え、完璧な公爵令嬢としての決意に満ちた微笑みを作った。
「どうかご安心くださいませ。私が必ず……ルガーノ家をお守りいたします」
「ああ……頼んだよ、ベアトリーチェ」
私の力強い言葉に、お父様は深い安堵の吐息を漏らし、ゆっくりと目を閉じた。
その穏やかな寝顔は、重荷をようやく一つ下ろせたように見えた。お父様が少しでも心安らかに眠れるのなら、私がすべてを背負えばいい。
握りしめられたままのお父様の手の感触。私はこの日、一人の少女としての無邪気な自分を完全に殺し、得体の知れない怪物であるレオナルドを縛り付けるための、絶対の『鎖』になることを静かに誓ったのだった。




