父の願いⅠ
公都ノルデンに構えられた公爵邸。その奥にある豪奢なガラス張りの別館、ここでは精霊魔法を利用し温度を高く保った植物園があるのだ。そこではアルビオンでは本来育たない植物たちが季節外れの花を咲かせていた。
年が明け、新年の儀が無事に終わったことを寿ぐ『年始めのお茶会』。今年で十三歳になる私は、招待した親しい友人や令嬢たちと微笑みを交わしながら、ふと温室の奥へと視線を巡らせた。
そこには、八歳になった弟のボナペントゥーラが、一人の青年に向かって目を輝かせながら熱心に話しかけている姿があった。青年は、弟の話に時折優しく頷き、完璧な微笑みを返している。
私の婚約者であり、このノルテン公国の政務中枢を担う家令、レオナルド・グレリオ。十八歳になったばかりの彼は、以前よりもさらに背が伸び、その立ち振る舞いには大人の男としての余裕と、為政者としての揺るぎない威厳が備わりつつある。
「……」
私はティーカップの縁を指でそっと撫でながら、胸の奥に渦巻く重い感情を飲み込んだ。
本来であれば、国を挙げての『新年の儀』の壇上には、当主である父が立つべきだった。しかし、三十二歳という若さであるにもかかわらず、父は病のために今年も新年の儀を欠席せざるを得なかったのだ。代わりに公国の貴族たちの前に立ち、見事に儀式を取り仕切ったのは、家令であるあのレオナルドだった。
(お父様のお加減は、本当に大丈夫なのだろうか……)
不安が頭をよぎる。時折見舞う父の顔色は、会うたびに少しずつ青白くなっているように見えた。もし、父の身に何かあれば、ルガーノ公爵家はどうなってしまうのか。幼い弟がすぐに後を継げるはずもない。
「ベアトリーチェ様?」
「え……あ、ごめんなさい。少し考え事をしてしまって」
友人の声にはっと我に返り、私は取り繕うように微笑んだ。
再び視線を戻すと、レオナルドが弟の頭を優しく撫でているところだった。ボナペントゥーラは本当に彼によく懐いている。ただの教育係としてではなく、まるで本物の兄のように慕い、心から信頼し切っているのが遠目にも分かった。
私は、彼が嫌いなわけではない。家令としての手腕は誰の目にも明らかだし、私に対する態度は常に紳士的で、婚約者として非の打ち所がない。
ただ――怖いのだ。
理知的すぎるあの灰色の瞳の奥で、彼が本当は何を考えているのか、私にはまったく見えない。お父様は彼の高い能力を認めて政務を委ねているが、私には、お父様が彼の底知れぬ才覚をひどく恐れているように見えてならないのだ。
公国の有力な貴族たちも、この若すぎる鬼才に強い警戒心を抱き、事あるごとに彼の足を引っ張ろうとしている。それでもなお、弟のように彼を心から慕い、その圧倒的な存在感に惹きつけられる者たちは後を絶たない。
それほどまでに人を呑み込み、魅了し、操る男。十八歳にして公国の実権を掌握しつつある彼にとって、公爵家を取り込むための正当な『鎖』、あるいは『飾り』として用意されたのが、私という婚約者なのだ。
(私がしっかりしなければ。お父様と、ボナを支えられるのは私しかいないのだから)
私がこの家を守らなければいけない。
そう思い詰めていると、不意に視線が絡んだ。レオナルドが弟との会話を終え、静かな足取りでこちらへ歩み寄ってくる。周囲の令嬢たちが、その見目麗しい青年の姿に頬を染めて道を譲った。
「ベアトリーチェ様。本日は素晴らしいお茶会にお招きいただき、感謝いたします」
私の前に立ったレオナルドは、優雅に一礼して微笑んだ。完璧な、絵画から抜け出たような貴公子の笑みだ。
「公務でお忙しい中、レオナルド様にお越しいただけて嬉しく思いますわ」
私もまた、完璧な公爵令嬢としての微笑みを返す。
表面上は、誰もが羨むような仲睦まじい婚約者同士。しかし、彼と向き合う私の心の中には、常に張り詰めたような緊張の糸が引かれている。
「ボナペントゥーラ様も、大変楽しんでおられるご様子ですね。先ほども、新しい農法の話を熱心に聞いてこられました」
「ええ。あの子は本当に、レオナルド様を尊敬しておりますから。……お父様も、傍にいてくださることを心強く思っていらっしゃるわ」
「もったいないお言葉です。ヴァイシス公爵閣下のご回復を、私も心から祈っております。ベアトリーチェ様も、看病でお疲れを出されませんよう」
その言葉の響きは、どこまでも思いやりに満ちていて、温かい。
だが、その優しさが本心からのものなのか、それとも周囲へ向けた完璧な演技に過ぎないのか。私には彼の真意が分からず、ただ底知れぬ深淵を覗き込んでいるような不安だけが募っていくのだった。




