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異世界の政 ~持続可能な異世界で、元総理が気づけばまた政治をしているわけですが~  作者: 五号戦車


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父の願いⅢ

 お父様の寝室を辞した後、私は弟のボナペントゥーラと共に遅めの夕食をとるため、大食堂へと向かった。

 本来なら一族が揃って座るはずの長大なマホガニーの食卓には、今は私と弟の二人だけが向かい合って座っている。暖炉の炎がパチパチと爆ぜ、豪奢な銀の燭台がテーブルを照らしているが、主を欠いた広すぎる空間はどこか寒々しかった。


「レオナルド先生は、本当に素晴らしいです、姉様!」


 無邪気で弾んだ声に顔を上げると、ボナペントゥーラが身を乗り出すようにして話していた。今日の直轄領視察がよほど楽しかったのか、彼の頬は上気し、出された温かいスープにも手をつけていない。その口からは、次々と家令を称賛する言葉が飛び出してくる。


「今日は新しい農法を取り入れた村を見てきたのですが、村人たちはみんな豊かで、笑顔でした。公都から派遣された若い役人たちが、きちんと記録を取りながら村を管理していたんです。先生はこう仰っていました。『領主の血筋や一人の才覚だけで領地を治めるのには限界がある。大切なのは、有能な役人を育て、誰がやっても同じように回る仕組みを作ることだ』って」

「仕組み……?」


 私がオードブルに伸ばしかけていた銀のフォークを止めると、ボナペントゥーラは自慢げに頷き、そして少し大人びた真剣な顔つきになった。まるで、尊敬する教師の身振りをそのまま真似るように。


「そうです。税の取り方や、誰がどの土地をどれだけ持っているか、兵士の数も。全部を正確に記録して、公国全体で同じように管理して分かるようにするべきだって。そうやって仕組みで国を動かせば、一部の者の顔色を窺うことなく、国はもっと強く、豊かになるんだって教えてくださいました!」


 八歳とは思えないほど理路整然と語る弟の言葉。それを聞きながら、私の口の中に広がっていたはずの料理の味は、完全に砂を噛むようなものに変わっていた。


(税も土地も軍も、すべて記録して公国全体で同じように管理する……?)


 それはつまり、現在各地を治めている諸侯たちから、その土地特有の自治権や独自の徴税権を奪い去るということだ。

 確かに、それが実現すればルガーノ公爵家による中央の統治能力は盤石になるかもしれない。だが、それは何百年と続いてきたこのノルテン公国の制度そのものを根底から破壊する、あまりにも急進的で危険すぎる思想だ。

 代々受け継いできた領地と特権を「公国の仕組みの一部」として奪われると知れば、誇り高い貴族たちが黙っているはずがない。反乱が起きる。血の雨が降るだろう。

 そんな劇薬のような考えを、あの男は、次期公爵である幼い弟に「国を強くする正しい方法」として刷り込んでいるのだ。


「先生の言う通りにすれば、ルガーノ家はもっと立派になります。先生は本当にすごい人です!」

「……そう、ね。すごい方だわ」

「だから、姉様が先生と結婚したら、先生はずっと僕たちの家族になるんですよね! ずっと一緒にいられると思うと、僕、すごく嬉しいです!」


 屈託のない笑顔でそう言い切る弟の瞳には、レオナルドに対する絶対的な信頼と、混じり気のない純粋な尊敬だけが満ちていた。

 カチャリ、と。私は持っていたフォークを静かに皿へ置いた。


 弟は完全に、あの男の思想に染められている。

 お父様は、彼の底知れぬ才覚を恐れ、私が彼を人として幸せにすることで家を保とうと願った。

 弟は、彼の語る恐ろしい理想を信奉し、無邪気に彼を家族として受け入れようとしている。


(……なら、私がやるしかない)


 私だけだ。あの男の描く盤上の恐ろしさに気づいているのは。

 このままでは、ボナペントゥーラも、ルガーノ家も、彼の恐ろしい理想のための手駒として踊らされ、いつか内乱の業火に巻き込まれて燃え尽きてしまう。お父様が最後の力を振り絞り、私に家を託した理由が、はっきりと分かった。

 私が、あの男を見張り、制御し、手綱を握り続けなければならないのだ。


「ええ。私も、結婚の日が楽しみだわ」


 私は震えそうになる声を押さえ込み、大好きな弟に向けて、精一杯の優しい微笑みを作った。テーブルの下で、上質なドレスの布地ごと、自分の膝を強く握り締める。爪が食い込み、微かな痛みが走ったが、それがむしろ私の心を冷たく研ぎ澄ませてくれた。


 お父様が彼を必要としているのなら。

 弟が彼を信じ切っているのなら。

 婚約者である私が、彼の最も近くに立ち、彼を縛り付けるための絶対の『鎖』になってみせる。


 暖炉の火が赤々と燃える食堂。だが、窓の外には凍てつくような冬の夜が広がっている。

 私は誰にも悟られることなく、このルガーノ家を守るための重く暗い使命を、一人静かに固めていた。


 ◇


 冷え込みの厳しい冬の夜。公爵邸の一室で、私は鏡の前に座る主人の、金糸のように美しい髪を銀の櫛でゆっくりと梳かしていた。


 私の名はエリー。

 地方男爵家の庶子として生まれ、縁あってこのルガーノ公爵家に奉公へ上がり、現在は公爵令嬢であるベアトリーチェ様付きのメイドを務めている。十六歳になる私から見ても、今年十三歳になるうちのお嬢様の美しさと聡明さは、ため息が出るほどに完璧なものだ。

 だが、今日のベアトリーチェ様は、どうにも危ういほど張り詰めているように見えた。お茶会を終え、病床の公爵を見舞い、ボナペントゥーラとの夕食から戻られて以来、ずっとだ。鏡越しに映るその瞳には、少女に似合わぬ重く暗い決意のようなものが宿っている。


「……エリー」


 静寂の中、ぽつりと落とされた声。私は櫛を動かしながら、「はい、お嬢様」と恭しく完璧なメイドの声で答えた。


「私は、あの男からこの家を守らなければならないわ」


 ――私は、櫛を動かす手を危うく止めそうになった。


「私が彼の近くに立ち、彼を繋ぎ止める。私がこのルガーノの盾にならなければ……」


 静かに、けれど己に呪いをかけるように呟くお嬢様に、私は「……左様でございますか」とだけ返し、ひたすら平静を装って髪を梳かし続けた。

 だが、胸の奥では激しいツッコミの嵐が吹き荒れていた。


(なんでそうなるの!?)


 私は心の中で、深く、深く頭を抱えた。

 弟のボナペントゥーラはあんなに無邪気にレオナルドに懐いているし、当主である公爵だって、あの並外れた才覚を頼りにしつつ、二人が普通の家族になることを望んでいるはずだ。

 それなのに、どうして一番近くで寄り添うべき婚約者のこの子だけは、ことごとく見事に逆方向へと突っ走ってしまうのだろう。


 ただでさえ、家令殿の周囲には厄介な女性が増え始めているはずなのだ。

 銀髪のハーフダークエルフ。

 アルヴァの狐人族。

 この先だって、きっと――。

 これ以上、レオナルドとベアトリーチェの心の距離が開いてしまうのは、本当に、冗談抜きでまずい。


(このままじゃ、本当に取り返しのつかない結末に向かっちゃう……!)


 家令殿とお嬢様。この二人の間が決定的にすれ違い、もしレオナルドの心が別の場所へ向かってしまえば、その先に待っているのは到底受け入れがたい最悪の結末なのだ。


(私がなんとかして、この二人をくっつけないと)


 それは、一介のメイドが抱くには、明らかに不自然で強すぎる執着だったかもしれない。だが、この二人にどうしても結ばれてもらわなければ、本気で困るのだ。

 私は鏡越しに映るお嬢様の、悲壮感すら漂う冷たい瞳を見つめ返しながら、これからの多難すぎる道のりに向けて、密かに固く拳を握りしめていた。

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