前進と摩擦と我慢Ⅲ
夜の帳が下りたマナーハウスの執務室。
書類の山と格闘していた私とレオナルドの前に、影が滑り込んできた。ハーフダークエルフの女性、メルヴィナだ。
「レオナルド様。ロッカロナー家についての調査報告がまとまりました」
その声には感情の起伏がない。だが、報告を求めるレオナルドの灰色の瞳には、普段の政務に向かう時とは違う、底冷えのするような光が宿っていた。
先日、レムノ辺境伯領での会談に同行したマルチェロが、マティルダの嫁ぎ先であるロッカロナー家を訪ねた際、不自然な理由で門前払いを食らったという一件だ。
「聞きましょう」
レオナルドがペンを置き、静かに促した。
「まず、マティルダ様は外遊などしておりません」
メルヴィナは淡々と事実を告げた。
「ロッカロナー家の当主も同様です。領地を離れてはおらず、屋敷に留まっています」
「なんだと……?」
では、マルチェロ兄上を追い返したあの執事の言葉は、完全に嘘だったということか。オズワルド辺境伯の許可を得ていたにもかかわらず、なぜそこまでして面会を拒絶したのだろうか。
「理由は明確です。彼らには、客人を屋敷へ招き入れたくない事情がありました」
メルヴィナの瞳が、真っ直ぐにレオナルドを見た。
「ロッカロナー家には、表向きの交易とは別の、隠された収入源があります」
「裏稼業か。何を商っている?」
「アルヴァから連れてこられた獣人や亜人たちです。彼らを密かに拘束し、奴隷として大陸の闇市場へ売り払っています」
その言葉に、私は絶句した。アルヴァの戦乱から逃れてきた難民たちを保護するどころか、捕らえて他国へ売り飛ばしているというのか。
「……本家のオズワルド辺境伯は、その事実を知っているのか?」
私の問いに、メルヴィナは首を横に振った。
「辺境伯閣下はご存じありません。分家が本家の目を盗み、独断で行っていることです。屋敷の地下には、出荷を待つ亜人たちが数多く留め置かれていました」
「なるほど」
レオナルドは酷薄な笑みを浮かべた。
「だからマルチェロ兄上を追い返したのですね。兄上が屋敷に入れば、その薄汚い裏稼業の匂いを嗅ぎつけられる。そう恐れた」
点と点が繋がった。だが、一番重要なことがまだ語られていない。
「マティルダは、どうなっている?」
私が身を乗り出すと、メルヴィナは少しだけ声音を落として報告を続けた。
「ロッカロナー家当主とマティルダ様の夫婦関係は、最初からないも同然でした。彼女は屋敷内で『いない人間』のように扱われ、部屋に軟禁された状態で生活を強いられていたようです」
「軟禁だと……!」
「はい。しかし、マルチェロ様が訪問したことで状況が悪化しました。当主は、我々が裏稼業の調査に動いているのではないかと疑念を抱き……現在、マティルダ様は部屋から一歩も出られないよう、完全に監禁されています」
怒りで目の前が真っ赤に染まった。我がグレリオ家の者を、まるで罪人のように監禁しているだと。
「レオナルド! すぐに本家のオズワルド辺境伯に抗議しよう」
私は机を叩いて立ち上がった。だが、レオナルドは氷のように冷たい声で私を制した。
「座ってください、ロメロ兄上」
「だが……!」
「問題なのは奴隷を売ったことではありません。自由民であるアルヴァの民を、違法に奴隷へ落としていることです。ですが、それをロッカロナー家当主の命令だったと証明できなければ意味がない」
「これだけ分かっていてもか?」
「我々が知っていることと、公の場で立証できることは別です」
「今問い詰めれば、下男か商人の一人にすべてを被せるでしょう。『我が家の者が勝手に行った。監督不行き届きだった』と言われれば、オズワルド辺境伯にも、それ以上ロッカロナー家当主を裁く材料がありません」
レオナルドの言葉は、残酷なまでに理にかなっていた。感情のままに動けば、すべてを台無しにする。ギリギリと奥歯を噛み締め、私は再び椅子に腰を下ろした。
「メルヴィナ。引き続き屋敷の監視と裏取りを進めてください。マティルダ姉上の身の安全だけは、何としても確保するように」
「承知いたしました」
メルヴィナが一礼し、再び影の中へと消えていく。執務室には、重く冷たい静寂が残された。
レオナルドは今や公国の家令として中枢に立ち、リオネルもかつてとは比べものにならぬほど力をつけた。それでも、姉一人を今すぐ助け出すことすらできない。
「……ロメロ兄上」
沈黙を破ったレオナルドの声は、静かだった。だが、その灰色の瞳の奥には、決して許しを与えない冷酷な炎が静かに燃えていた。
「姉上は、必ず救い出します。そしてロッカロナー家には、グレリオを敵に回した代償をきっちりと払わせます。……ですが、今は我慢の時です」
レオナルドは再び机上の報告書へ視線を落とした。だが、その横顔を見ているだけで分かった。ロッカロナー家が何者であろうと、もうこの弟が忘れることはない。
私もまた、握り締めた拳を開くことができずにいた。
-----制度紹介-----
ノルテン公国の奴隷制度
ノルテン公国では、奴隷という身分そのものは違法ではない。
主な奴隷は、犯罪によって身分を失った犯罪奴隷や、返済不能となった債務奴隷であり、正規の手続きを経た奴隷の売買も認められている。
一方、自由民を拉致、脅迫などによって強制的に奴隷身分へ落とす行為は犯罪となる。
ただし封建制度下では、家臣を裁く権限は基本的にその主君に属する。そのため、犯罪への関与を当主本人まで立証できなければ、配下の者に罪を負わせて処分することで、家そのものが責任を免れる場合もある。




