前進と摩擦と我慢Ⅱ
春の暖かな陽光が、リオネルのマナーハウスの窓辺に明るい四角を描いている。吹き込む風はどこまでも心地よいが、私の目の前にそびえ立っているのは、そんな春の穏やかさとは無縁の威圧感を放つ巨大な書類の山だった。
「……少し抱えすぎではないか?」
執務室に入ってきたロメロ兄上が、机上の惨状を見て呆れたようにため息をついた。私が公国の家令として公都へ出向いている間、このリオネル領の統治を実質的に代行してくれている頼れる兄である。
「これは全部、公都の仕事か?」
「半分は。残りはリオネル領の内政と、アルヴァの案件です」
私がインクの切れた万年筆を置きながら淡々と答えると、ロメロ兄上はあからさまに頭を抱えた。兄上が呆れるのも無理はない。客観的に見ても、現在の私が抱えている業務量は尋常ではないのだ。
公国の家令としての政務、公爵直轄領の改革、次期公爵の教育。それに加え、自領であるリオネルの経営と造船事業、そしてアルヴァへの人道支援と特区構想のすり合わせ。前世の言葉で言えば、一国の総理大臣と、外務、財務、経産、防衛の各長官をすべて一人で兼任しているような状態だ。
「ジェロットも、オズモたちも働いていると聞くが……お前の机の上の紙は、一向に減っているように見えないな」
「彼らは手足となって、非常によくやってくれていますよ」
私は冷めた紅茶を一口啜り、小さく息を吐いた。
「ですが、失敗しているから仕事が増えているわけではないのです。むしろ、成功しているからこそ案件が雪だるま式に増えているのですよ」
前世で総理大臣を務めていた時もそうだった。政策というものは、立ち上げて成功すればそれで仕事が減るわけではない。一つの問題を解決すれば、それを社会に実装・運用するために、新しい仕事が生まれるものだ。
「公爵直轄領の改革は、どうなっている?」
ロメロ兄上が向かいの椅子に腰を下ろし、案じるように尋ねてきた。
「成果は出ています。公都では文字の読み書きができる官僚候補の人材も増え、初歩的な帳簿の管理や行政補助を任せられるようになってきました。一部の地域では、記録形式の統一化も進んでいます」
「順調じゃないか。それなら、少しは楽になりそうだが」
「そう簡単にはいきません」
私は手元の決裁書類をトントンと揃えながら、静かに首を振った。
「『文字が書けるから役人になれる』という単純な話ではないのです。村や街ごとに長年染み付いた慣習や税の取り立て方が違いすぎる。現場に赴き、中央の新しい制度と現地の事情を調整できる『中間層』が圧倒的に不足しています」
「なるほど。制度を理解し、民も説得できる人間か」
「ええ。それに、既存の官吏をすべて排除することもできません。彼らの中には腐敗している者もいますが、長年その土地の行政を回してきた実務能力がある。いきなり首を切れば、行政そのものが停止してしまいます」
人間を替えれば、すぐに制度が変わるわけではない。制度を替えれば、人間がすぐそれに適応するわけでもない。この泥臭い摩擦熱と、気の遠くなるような調整作業こそが、政治の現実なのだ。
「アルヴァ南部の『難民救済特区』の件はどうだ。レムノ辺境伯は協力してくれるのだろう?」
「ええ、ティル・バリウス王との大枠の合意も得ており、国境の防衛という観点からオズワルド辺境伯閣下の強力な後押しも取り付けました。ですが……」
「ですが?」
「公国内地の貴族たちの反発は根強いです。なぜ他国の民のために公国の穀物を消費し、警備費を負担しなければならないのかと。それに、支援した物資がアルヴァの軍閥に横流しされる危険性も完全には排除できていません」
これもまた、解決すべき課題が山積みだ。
「……本当に、休む暇もないな」
「次期公爵、ボナペントゥーラ様の教育もありますしね」
「あの方はどうなのだ?」
ロメロ兄上が身を乗り出す。
「非常に聡明で素直な方です。読み書きや歴史、統治の基礎概念など、吸収は驚くほど早い。座学は順調そのものです」
「ならば安心じゃないか」
「問題は……周囲が公爵の後継者として過剰に特別扱いするため、現場を知る実地経験が決定的に不足しています」
私は言葉を切り、公都の空席の玉座を思い浮かべた。
ヴァイシス公爵の健康不安。新年の儀すら欠席せざるを得なかった。ボナペントゥーラ様が成人するまで、あと九年。
……九年ある。
だが、本当に九年あるのか?
万が一、公爵の身に何かあれば、あの七歳の少年が強引に公国の頂点へ引きずり出されることになる。教育の速度を上げたいと焦る気持ちはあるが、幼い子供に無理な詰め込み教育を強いるわけにもいかない。
「……ため息しか出ないな」
ロメロ兄上が深く背もたれに寄りかかった。そして、少しの間を置いてから、ふと意地悪な笑みを浮かべた。
「そういえば、もう一つ重要な案件があっただろう。公爵令嬢、ベアトリーチェ様との間はどうなのだ?」
「……」
「兄として言わせてもらうが、政治や経済の案件より、そちらの方がよほど難航していないか?」
痛いところを突かれ、私は万年筆に伸ばしかけた手を止めた。
婚約者としての関係の進展。
成果、ほぼなし。
問題、相変わらず極度に警戒されている。
彼女自身、政治的な『鎖』としての意味合いを強く持たされていることを、賢いからこそ理解しているのだろう。茶会などを通して言葉を交わすこともある。だが、婚約者としての関係などというものには程遠い。
「……否定できないのが腹立たしいですね」
私が渋い顔で本音を漏らすと、ロメロ兄上は堪えきれないように声を上げて笑った。
「お前でも手こずる案件があって、少し安心したよ」
ひとしきり笑った後、ロメロ兄上は当主を代行する頼もしい兄の眼差しに戻った。
「レオナルド。人材が足りないという問題は、リオネルもノルテンも同じだ。今は過渡期なのだろう。だが、お前が倒れればすべてが終わる。それだけは忘れるなよ」
「分かっています、兄上」
私は積まれた書類に視線を戻した。簡単には解決できない問題ばかりだ。だが、立ち止まるわけにはいかない。一つずつ、確実に乗り越えていくしかないのだ。




