前進と摩擦と我慢Ⅰ
潮風が頬を打ち、波を切る心地よい水音が耳に響く。春の陽射しを反射してきらめくリンクス沖合の海を、真新しい帆を張った一隻の船が滑るように進んでいた。リオネル領が総力を挙げて開発を進めている、中型交易船の試作型弐番艦。本日はその記念すべき試験航海の日である。
私は背負ったハルバードの重みを感じながら、揺れる甲板の上にどっしりと両足を踏ん張っていた。ドワーフの頑丈な体躯ならば、この程度の揺れで態勢を崩すことはない。ふと視線を横に向けると、舳先の近くで風を浴びている我が領の若き当主の姿があった。
「――して、若様。いや、男爵閣下」
私は呆れ半分に声をかけた。
「今日は公都で、新任騎士の叙任式が執り行われているのではなかったのですかな?」
療養中の公爵の代理として、若き家令が騎士たちに剣を授ける。公国においても重要な式典のはずだ。そんな日に、当の家令がこうしてリンクスの海の上で潮風に吹かれているというのは、どう考えてもおかしい。私の小言に対し、レオナルド様は海を見つめたまま、あっけらかんと言い放った。
「私の仮面を被っていれば誰でもいいんですよ」
振り向いた彼の顔には、にやりとした悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。普段の理詰めで大人びた領主の顔ではない。その笑顔だけを見れば、どこにでもいる年相応の少年のように見受けられる。だが、その言葉の意味するところは決して子供の悪戯などではない。
(……やれやれ、代役というのは『あの男』か)
私は内心で舌打ちをした。
「気に入らない、という顔ですね」
「好きにはなれませんな。あの男は得体が知れぬ」
レオナルド様は「でしょうね」と声を立てて笑った。どうしてあんな者を、とも思う。だが、この方にはこの方の考えがあるのだろう。
「おーい! 乗り心地はどうだ、男爵様!」
甲板の奥から、豪快なだみ声を上げて親友のワーグナーが歩いてきた。その顔は潮風に吹かれ、職人らしい充実感に満ちている。
「素晴らしいですね、ワーグナー殿。一番艦よりも随分と波当たりが滑らかに感じます」
「カッカッカ! 分かるか!」
ワーグナーは自慢げに自身の厚い胸板を叩いた。
「一番艦を実際に浮かべてみたら、どうにも問題が出てな。荷を積むと船尾が沈みすぎちまったんだ。だからこの弐番艦では、竜骨の組み方を少し見直して、重心を前へ移した」
「帆柱の高さも、一番艦と違いますね?」
「ああ。速く走らせようと帆柱を高くしたんだが、今度は横風を受けた時に船が寝すぎちまう。バランスってやつは難しいもんだ」
ワーグナーは愛おしそうにマストを見上げる。彼らがリューベルから持ち帰った帝国の技術は、魔法のように何でもすぐに解決してくれる万能の杖ではない。作って、浮かべて、失敗して、また直す。その地道な試行錯誤の繰り返しこそが、技術の正体だ。
「速度はどうなりました?」
レオナルド様が尋ねると、ワーグナーは少し肩をすくめた。
「空荷の状態なら、一番艦より間違いなく上がった。だが、満載まで積めば大して変わらん」
「それで十分でしょう」
レオナルド様は満足そうに頷いた。
「我々が造っているのは交易船なのですから、空荷で速くても仕方ありません。積載時の安定性が確保されているのなら、それが正解です」
「親方!」
そこへ、操舵輪を握っていた我が領の若い技師が駆け寄ってきた。
「波を切る力は申し分ないんですが、ただ……舵がまだ重いです。風をいっぱいに受けると切り遅れそうになります」
若い技師の報告に、ワーグナーは太い眉を寄せた。
「チッ、重心を前に移したしわ寄せがそっちに出たか」
「直せそうですか?」
「直すさ。だが、この船をいじくり回すより、一から設計を変えた方が早い」
ワーグナーはニヤリと笑い、若き領主を見た。
「三番艦では、舵機構そのものを変える。すでに頭の中には図面ができておるよ」
「期待していますよ、ワーグナー殿」
レオナルド様もまた、確かな手応えを感じたように微笑み返した。
私はそのやり取りを黙って聞いていた。吹き抜ける春の潮風の中、私はこのリオネルの確かな前進を、肌で感じていた




