目と耳Ⅳ
会談を終えたその足で、私は手配された馬車に乗り込み、レムノ辺境伯家の分家であるロッカロナー家の屋敷へと向かった。
春の柔らかな陽射しが、揺れる馬車の窓から優しく差し込んでいる。数年ぶりに見るマティルダ姉上は、元気にしているだろうか。武門の誉れ高い嫁ぎ先で、どのような暮らしをしているのか。手紙のやり取りこそ定期的にあるが、直接顔を見るのは本当に久しぶりだ。
手土産として用意した公都の美しい菓子包みを膝に置き、私は子供の頃以来のような、そわそわとした落ち着かない気持ちを味わっていた。
だが。
ロッカロナー家の立派な屋敷へ到着した私は、門前で思いもしなかった言葉を聞かされることになった。
「申し訳ございません。マティルダ奥様は現在、当主の外遊に付き添っており、屋敷を長期間不在にしております」
門番から取り次がれた初老の執事は、私を屋敷の玄関へ通すことすらなく、鉄柵越しに慇懃な口調でそう告げた。
「外遊ですか……?」
私は眉をひそめた。
「ですが、つい先ほどオズワルド辺境伯閣下から、こちらで姉に会えると伺ったばかりですが」
その瞬間。執事の表情が、ほんのわずかに強張ったように見えた。しかし、それも本当に一瞬のことだった。
「私どもから申し上げられることは、それだけでございます」
取り付く島もない、冷たい返事だった。
(……おかしい)
先ほどまで外交の席で熱を帯びていた頭が、急速に冷えていく。
オズワルド辺境伯は、『ロッカロナーの屋敷なら、ここから馬車ですぐだ』と、何の疑いもなく明言した。マティルダ姉上がいないことを知っていた様子など、微塵もなかった。
分家の当主が正妻を伴い、領地を離れている。それを本家当主であるオズワルド辺境伯がまったく知らないというのは、いくら何でも不自然すぎる。ましてや、辺境伯が私たちに対して、その程度のことでわざわざ嘘をつく理由などない。
ならば。嘘をついているのは、こちらだ。
(姉上は、本当に外遊しているのか?)
なぜ、実の弟である私を屋敷に入れない。なぜ、姉上に会わせない。何を隠している?
吹き抜けた春風が、急に氷のように冷たく感じられ、私は背筋に嫌な汗が伝うのを覚えた。
レムノ辺境伯城の近くに用意された迎賓用の宿舎へ戻るなり、私はレオナルド様へ事の顛末を報告した。
「――という次第です。辺境伯閣下のお名前も出しましたが、取り次ぎすら拒否されました」
執務机に向かっていたレオナルド様は、途中で口を挟むことなく、最後まで私の報告を聞いていた。そして。
「……辺境伯閣下がご存じない外遊、ですか」
レオナルド様の指先が、机の天板を一度だけ軽く叩いた。コツ、という乾いた音が室内に響く。
「妙ですね」
顔を上げた彼の表情から、先ほどまでの外交の席で見せていた穏やかさが、すっと消え去っていた。少し考え込んだ後、レオナルド様は静かに、だが通る声で呼んだ。
「メルヴィナ」
ほどなくして音もなく扉が開き、深い褐色の肌と長い耳を持つハーフダークエルフの女性が入室した。
「お呼びでしょうか、レオナルド様」
「ロッカロナー家について調べてください」
レオナルド様は、氷のように冷たい灰色の瞳で命令を続ける。
「当主夫妻の動向。屋敷内で何が起きているのか。そして――」
わずかな間。
「マティルダ姉上の、本当の居場所と安否を」
「承知いたしました」
短く答え、メルヴィナは深く一礼した。やがて扉が閉まり、彼女の影のような姿が消える。
残された室内に、重く息苦しい沈黙が降りた。
ただの行き違いなら、それでいい。姉上が本当に気まぐれな旅へ出ていて、本家への連絡が何らかの事情で遅れて届いていなかった。それだけならば、後で笑い話にもできる。
でも、もしロッカロナー家が、意図して姉上の所在を私たちから隠しているのだとしたら。
私は無意識のうちに、手すりに置いた拳を白くなるほど強く握りしめた。
季節は春を迎えているはずだ。それなのに、目の前に広がるその景色は、冬よりもひどく冷たく見えた。
-----人物紹介-----
メルヴィナ
22歳/ハーフダークエルフ
褐色の肌に長い白銀の髪、黒い虹彩の中に緋色の瞳孔を持つ女性。長身でグラマラスなプロポーションの持ち主。
十歳の頃、野盗に捕らわれていたところを一人の少年に救われ、その人物を師と仰ぐようになる。その後七年間にわたり、隠密、潜入、追跡、戦闘などの過酷な訓練を受けた。
その修行は苛烈を極め、やがて痛みに対する反応すらほとんど失い、感情を表に出さない人間となった。喜怒哀楽を見せることはほとんどなく、任務中は自らの負傷にも頓着しない。
修行後は師と行動を共にし、情報収集や潜入、時には暗殺を含む裏仕事に携わる。
現在は師と共にレオナルドへ恭順し、レオナルド直属の諜報員として表には出ない任務を担当している。




