目と耳Ⅲ
公国の北西部。シエル伯爵領をさらに越え、アルヴァ王国と長く国境を接するもう一つの要衝、レムノ辺境伯領。
その中心にそびえる城館は、華美とは程遠い、いかにも国境を守る武人の居城らしい堅牢な造りをしていた。厚く切り出された石壁。防衛のために小さく穿たれた窓。城内の廊下を慌ただしく行き交う兵士たちの姿も、装飾めいた鎧を纏う公都の近衛たちとはまるで違う、実戦の匂いを帯びている。
その一室で、私は外交官として手元の書類を広げながら、向かい合う二人の会談に息を詰めて同席していた。
「――では、公爵家としては、アルヴァ南部への難民救済特区の設置を本格的に進める方針なのだな」
上座に座るオズワルド・ロナー辺境伯が、卓上に広げられた詳細な国境地図を見下ろしながら重々しい声で尋ねる。
「はい」
向かいに座るレオナルド様が、静かに頷いた。
「ティル・バリウス王との間では、大筋についてすでに合意しています。アルヴァ国内に戦乱から逃れた民を受け入れる地域を設け、王国側が土地と治安維持を、公国側が主に食料面で支援する構想です」
「アルヴァ側としては、食料を引き出せるなら悪い話ではないというわけか」
「そうでしょうね」
レオナルド様は、相手の打算を隠すことなくあっさりと認めた。
「向こうにも向こうの事情があります。広い領土を持ちながら、王権が十分に及んでいない地域も多い。避難民をまとめて受け入れられる場所を整備できるのであれば、王としても利益はあります」
オズワルド辺境伯は太い指で顎を撫で、低く唸りながら地図へ視線を戻した。
アルヴァ王国とノルテン公国。二つの国の間には、険しい山々や森が入り組む長い国境線が横たわっている。そして、その最前線を担う領地が、我がリオネルとこのレムノだった。
「俺は、この構想には賛成だ」
オズワルド辺境伯は、迷うことなく言い切った。そのあまりに早い返答に、レオナルド様がわずかに眉を上げる。
「公都では、反発する諸侯も少なくないでしょう」
「連中は国境を見ておらん」
辺境伯は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「『なぜ他国の民に公国の穀物を食わせねばならん』。そんなところだろう」
「概ね、その通りだと思います」
「しかし、我らにとって悪い話ではない」
「ですから、本日は閣下にもご協力をお願いしたかったのです」
レオナルド様がそう告げると、オズワルド辺境伯はすぐに意図を察したらしい。鋭い眼光が若き家令へ向けられた。
「俺に説得しろと?」
「北辺の事情を最もよく知る辺境伯から説明していただければ、私が話すより遥かに効果があります」
辺境伯は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「これはレムノにも直接利益がある話だ。俺が黙っている理由はないな」
返答は実に明快だった。
「公国の穀物を外国へばら撒く慈善事業だと思っている連中には、俺から言ってやる」
オズワルド辺境伯は、地図上の国境線を太い指で強く叩いた。
ン、と鈍い音が響く。
「これは北部国境を守るための金だとな」
レオナルド様が、敬意を込めて深く頭を下げる。
話は思った以上に円滑にまとまった。公爵家の家令と、分権派の巨頭。立場だけを見れば、必ずしも同じ方向を向く者同士ではない。
だが、目の前に共通の現実的な問題があるのなら、話は別だ。大量の難民流入と、それに伴う治安悪化を抑える一点において、リオネルとレムノの利害は完全に一致している。そして、オズワルド辺境伯は、派閥の都合だけで政策を判断するような狭量な人物ではなかった。
「実りのある会談でした。感謝いたします、辺境伯閣下」
レオナルド様がそう締め括ると、オズワルド辺境伯は小さく鼻を鳴らした。
「礼を言われるような話ではない。こちらにも利益がある」
武骨な辺境伯の顔にわずかな笑みが浮かび、張り詰めていた空気が緩んだ。
その時だった。レオナルド様が、ふと思い出したような、ごく自然な口調で話題を変えた。
「ところで閣下。本日は、私の外交官を務める兄、マルチェロも同行しております」
「できる男と噂は聞いておる」
突然自分の話になり、私は書類から思わず顔を上げた。
「ありがとうございます。実は、閣下の分家であるロッカロナー家に、私たちの姉マティルダが嫁いでおりまして」
「ああ、そうだったな」
辺境伯の険しい顔が、身内の話題を出されてわずかに緩む。
「本日の会談後、兄に姉への訪問を許していただけないでしょうか」
「俺に許可を求めるほどのことでもなかろう」
オズワルド辺境伯は、さも当然だと言うように豪快に笑った。
「ロッカロナーの屋敷なら、ここから馬車ですぐだ。久しぶりなのだろう?」
「六年ぶりになります」
私が恐縮しながら答える。
「なら行ってこい。姉弟で積もる話もあるだろう」
「ありがとうございます」
私は席を立ち、深く頭を下げた。政務という重責のための訪問であるにもかかわらず、こうして私の私情にまで気を回してくれる弟には、本当に頭が下がる思いだった。




